アポなしで家に押しかけてきた小説家は、気を抜くと、ところかまわず靴下を脱ぎ捨てる男だった。

 指先でつままれて持ちあげられた靴下は、古びたイカの干物の袋を開けたときのような発酵臭をかすかに漂わせていたり、足裏が薄汚れていたりしたはずだが、男は悪びれることもなく放り投げる。

 だが、そんな無神経なふるまいも、彼が掘りちらかした恋の落し穴に転げ落ちてしまった女たちは、男が、すべてをさらけ出して甘えてくれていると寛容に受けとめて、肉体の秘められた花芯がジンジンしてしまうのだ。

 本作に登場する文壇の不倫カップル、長内みはると白木篤郎は、実際に約7年間、背徳の関係にあった瀬戸内寂聴(1922~2021)と井上光晴(1926~92)をモデルにしている。

 

瀬戸内寂聴

 

瀬戸内晴美(僧形になる前の寂聴)

 

井上光晴

 

 井上は、いわれなき偏見によってさげすまれ、しいたげられてきた人びとと同化するように共感し、嗚咽し、怒声を張りあげるように書く、文学的には気骨のある作家だった。

 醜男ではないがイケメンでもない、どっちつかずの顔だちをしていて、声も態度も人一倍デカい。

 酒に酔っていようがいまいが自己愛の強さをさらけ出し、やたらに毛量の多い頭髪をふり乱しながら、虚実ないまぜの自分語りを止められない。

 実像はそんな男だった井上は、生涯、セックスには不自由しなかったらしい。

 その訳は、濃厚な性フェロモンを自在にまき散らせる恋愛エスパ―であるかのような天性の特殊能力の戦果としか言いようがない。

 「俺には君しかいないんだ」とか「君だけは特別な存在だよ」と、いくたびか耳元でささやいているうち、いつのまにか、抵抗されないまま女と指をからませあっていたり、肩を抱き寄せていたりする。

 井上の長女の荒野が書いた同名の原作小説では、映画で広末涼子が演じた、白木の妻、笙子に、早くも三角関係をひきずっていた新婚のころを回想しながら、こんな独白をさせている。

 「あの女とはなんでもない、と篤郎は言った。何かあったとしても、それはたんに肉体だけのことで、あんたと俺の繋がりのようなものではない、全然違うのだから、と。なんという理屈だろう! でも私は許してしまった。なぜだろう? きっともうそのとき私はすでに、とんでもないところに――それまでいなかった場所、ほかの女たちはけっして行かない場所に連れてこられていたからだろう」

 同様に長内みはるも、こう述懐する。

 「何かがあって白木を好きになったわけではなかった。理由などないのだ。雷に打たれたようなものだとわたしは思った。結局、あの徳島の講演会の日の朝に、わたしめがけて白木が落ちてきたのだ」

 

 

 

 

 

 得度して寂聴となる前の瀬戸内晴美と井上光晴は1966年、四国で開かれた出版社主催の講演会で初対面し、ほどなくして情を通ずる仲になった。

 井上はすでに妻子持ちで、連れあいはふたりめの子を身ごもっていた。

 瀬戸内も、こみいった事情があって腐れ縁でつながっている情人と、心が離ればなれになったまま同居していた。

 瀬戸内は、最晩年になってもなお、「情熱がなけりゃ生きてたってつまらないでしょ。他人の旦那だろうが好きになったらしょうがないじゃない。青春は恋と革命。その情熱を失わないまま死にたいのよ」と言い放つ、元来、多情な人だった。

 ことさら出家遁世するまでの恋愛遍歴は、なにごともないようにみえながら、不意に熱病にもたらされた痙攣の発作に襲われるように、狂おしかった。

 

 

 

 徳島市の眉山のふもとにある仏壇屋の娘だった瀬戸内は戦中、20歳のときに同郷の徳島県人で中国古代音楽史の研究者だった九つ年上の男性と見合い結婚した。

 敗戦の翌年、北京で大学講師をしていた夫と中国から郷里に引き揚げてきた彼女は、夫が戦前、徳島の商業学校の教師だったときの教え子で愛弟子だった四つ年下の文学青年とめくるめく恋に落ちる。

 道ならぬ恋情は激しさを増すばかりになり、48年2月、ついに3歳のひとり娘を置き去りにして、夫が職探しをしていた東京から京都へ出奔してしまった。

 道連れとなるはずだった青年はしかし、そこにいなかった。

 まだ口づけすら迫れず、観念の恋愛に駆り立てられていただけだった彼は、人妻の向こう見ずに恐れをなし、覚悟を固められないまま身を引いてしまったのである。

 その後、ふたたび上京した彼女は、鬼才とうたわれながら不遇だった作家の小田仁二郎(1910~79)にめぐりあい、小説の技法とともに、その精髄のなんたるかを教えこまれた。

 文学の師とあおいだ、この妻子持ちのみすぼらしい男とは約8年、半同棲を続けた。

 小田は、みずからの不貞を慎み深い妻にも認めさせ、律儀に1週間を等分して、ふたつの家を往来していたという。

 

 

 

 ところが、分別を見失って夫とわが子を捨ててしまってから13年後、愛のちぎりをかわしながら京都に来なかった男が、唐突に下宿に現れたのである。

 映画では「真二」と名づけられている、かつての文学青年は、再会したとき、全身から精気が失われ、さまよう幽鬼のように見る影もなくやつれていた。

 その変わりように、うしろめたさと哀れみをかきたてられた瀬戸内は、小田との不倫にくぎりをつけ、「真二」と内縁の夫婦のような生活を始めたものの長続きしなかった。

 すでに、ひく手あまたの人気作家になっていた彼女は締め切りに追いまくられ、男にかまってなどいられなくなっていたのだ。

 きらびやかに飾り立てる虚飾がはぎとられていくように、恋愛観も変質しかけていた。

 「人の愛は、無償とみえ、無私をよそおうものほど自己愛の満足にすぎない」という疑念がぬぐえなくなり、「自己の欲望が損ねられると、たちまち憎悪に転ずる」と諦観するようになっていた。

 井上と出会ったころの心模様は、哀れなほど色褪せ、穴だらけで、感情も干からびかけていたのではないだろうか。

 

 

 

 講演旅行で井上の迫力に気おされた瀬戸内は、小説を読み直して心酔するようになり、体を重ねるようになってから、書きあげたばかりの原稿を喫茶店で添削してもらってもいた。

 そんなやりとりがあったことを知ると、彼女が愛人であり弟子でもあった、小田仁二郎との関係を思い起こさせるが、決定的に違っていたのは、ひとまわりも年上の小田が生まじめすぎる不倫相手だったのに対して、年下の井上は「嘘をつかなければ生きていけない」不まじめな性欲の塊だったことだ。

 それでも、ふたりは別れられなかった。

 瀬戸内をとらえるための落し穴は、死に物狂いであがいても絶対にはいあがれないほど、とてつもなく深く掘られていたのだ.

 苦しまずに救済されようとするなら、穴の底で命を絶つしかない。

 73年の秋、51歳にして俗世を離れ、仏門に入った理由のひとつは、そこにあった。

 井上光晴夫妻と瀬戸内寂聴。

 愛憎の混沌にひきずりこまれ、粉々になった3人は、ともにいま、寂聴が住職をつとめた岩手県の古刹、天台寺の墓所に葬られている。

 

 

 

《2022年/原作:井上荒野「あちらにいる鬼」(朝日文庫)/監督:廣木隆一/脚本:荒井晴彦/出演:寺島しのぶ、豊川悦司、広末涼子、高良健吾、村上淳、蓮佛美沙子、佐野岳、宇野祥平、丘みつ子》