《ネタバレあり》
あらかじめ獲物を捜索するリハーサルを重ねていたり、いなかったりしながら、おとなしく出番を待ちかまえていた「ハンター」たちが、劇場の暗転とともに息をひそめてうごめきだす。
「怪物」とは、なに者なのか。
あるいはそれは、手で触れられたり目に見えたりするものではなく、不合理を信仰してやまない因習や、こわばって人間味を失ってしまった、なんらかの仕組みのような、形のないものなのか。
いびつな人間模様が潜んでいる物語に、つかの間、没入して「モンスターハンター」となった観客は、それぞれの勘を働かせて獲物を嗅ぎあて、正体をあばこうとする。
だが、スクリーンに投影されているはずのそれは、擬態や保護色を巧みに使いこなしているらしく、怪物ならばグロテスクに折れ曲がっているはずだと思いこまれている尻尾を簡単にはつかませない。
そのうえ物語は3部構成の形をとり、黒澤明の「羅生門」さながら、同じ出来事を、立場を異にする3人の視点からとらえていて、その推移は、万華鏡を120度ずつ回転させたように色合いが激変し、まったく食い違った様相を見せている。
第一幕は、広大な湖に面した、ある地方都市で、つましく暮らしているシングルマザーの麦野早織にスポットライトがあたる。
夫を事故で亡くした彼女は、地元のクリーニング店で働きながら、11歳になるひとり息子の湊を育てている。
早織は思わず知らず、我が子の成長に、男臭いラガーマンだった亡夫の残像を重ね合わせてしまうのだが、自意識をこじらせる思春期にさしかかっている湊は、母親の無垢な願望を感じとると、言い知れない曖昧な表情を浮かべるようになっていた。
そんな湊の身辺で、些細な事だが不可解な異変が立て続けに起きたため、早織は、信頼しきっていた予言者に、見つめられたまま口をきいてもらえなくなった人のように、漠然とした不安をかき立てられる。
それは、学校に持っていった水筒の中から泥水が出てきたり、スニーカーの片方がなくなっていたり、肩口まで伸ばしていた髪を、理由も言わずに、いきなり自分でハサミを使ってカットしてしまったりしたようなことだったが、どれもが、現に我が子の身にふりかかっている災いのシンボルのように思えてしまう。
ある日、小学校の下校時間を過ぎても帰宅しなかった湊は、鉄道の廃線跡にあるトンネルの荒廃した空洞の中で、「怪物、だーれだ?」と呼びかけながら、さまよっていた。
捜しに来た母親に、彼は涙ぐみながら、こんなことを打ち明けるのだった。
「僕の脳は豚の脳と入れ替えられているって。先生に、そう言われた」
第2幕は、湊のクラスの担任教師、保利道敏が知りえた、事のなりゆきが描かれる。
新卒で子どものあつかいに慣れていなかった保利は、気弱そうに見えながらも生まじめにクラスに溶けこむ努力を惜しまず、それなりに平穏な日常を過ごしてきたはずだった。
ところが、なんの前触れもなく麦野早織が学校に乗りこんできて、息子が保利に殴られて怪我をさせられたり、給食を食べさせてもらえなかったりしたうえ、「お前の脳は豚の脳だ」と暴言まで吐かれたと糾弾されたのだ。
まったく身に覚えのない保利は反論しようとするが、保身しか考えていない事なかれ主義の上司に押しとどめられて心ならずも謝罪させられたばかりか、地元紙に暴力教師と書き立てられ、挙句、職を失う破目になる。
じつは保利は、それ以前から、湊にある疑惑を抱いていた。
クラスメートの男子の星川依里を、上履きを隠したりトイレに閉じこめたりして、いじめているのではないかと。
それが事実ならば、さらに担任教師まで攻撃して巻きぞえにしようとする少年の心を蝕んでいる悪意は、もはや生半可な大人の手に負えるものではない。
「怪物」とは、いったいなに者なのか。
その問いのベクトルは、湊視点の第3幕になると方向が反転し、スクリーンに見入っている者の自我に向かってドリルの先端を食いこませ、深い内省の扉をこじ開けるバールのようなものとなる。
湊と依里は、たがいを求めあい、離れられなくなる同類の関係だった。
その切実なつながりは、なぜか周囲の人間関係とは適合しなかった。
同級生や大人たちに知られると、禁忌を犯したと責め立てられるので、ふたりは廃線跡の秘密基地で密会するほかなかったのである。
冷血な怪物の群れに包囲されている悪夢を、孤独をまぬがれられる楽園の甘美な幻想にすりかえながら。
ほとんどのモンスターハンターたちは、みずからが狩られる側だったことを思い知らされ、背後から散弾銃で撃たれたように、胸に無数の風穴が開く。
嵐の夜、少年たちはついに、悪夢の裂け目を見つけて脱出する。
ふたりを迎え入れた、怪物のいない世界は、時を止め、彼らが怪物にならないように入念な心配りをするはずだ。
《2023年/監督:是枝裕和/脚本:坂元裕二/音楽:坂本龍一/撮影・近藤龍人/衣装デザイン:黒澤和子/出演:安藤サクラ、永山瑛太、黒川想矢、柊木陽太、高畑充希、角田晃広、中村獅童、田中裕子/第76回カンヌ国際映画祭脚本賞》