《ネタバレあり》

 行き先を持たない旅人は、夢見がちであるはずだ。

 時の流れに急きたてられず、その大半がうっとうしい人間関係にも縛られず、浮世のしがらみから、あらかた逃れられているだけで夢見心地になれるというもの。

 風まかせの恋するエトランゼ、フーテンの寅さんなら、なおさらだ。

 そんなわけで、「男はつらいよ」シリーズといえば、冒頭の車寅次郎夢見のシーンがお約束になっている。

 なかでも人妻役の大原麗子がマドンナとなった第34作『寅次郎真実一路』のそれは、下町の国民的人情ドラマにまったく興味がなくても見逃してはならない珍品だ。

 なにしろ、松竹が手がけた唯一の怪獣映画「宇宙大怪獣ギララ」の特撮シーンが使いまわされているのだから。

 いきなり日本に出現した怪獣ギララは都市や野山を好き放題に蹂躙。自衛隊も蹴散らされ、テレビニュースのアナウンサーは「日本の近代兵器は、まるでおもちゃです!!」と絶叫している。

 あわてふためく首相(じつはタコ社長)が救いを求めたのは、「日本沈没」の箱根の老人のような風格を醸し出しながら筑波山麓に隠遁している寅次郎博士だった。

 15年前に怪獣襲来を予言しながら信じてもらえず大学を追放されてしまった博士は、世捨て人同然の暮らしをしていた。

 「どうか、この危機をお救いください!」とすがりつく首相を、「わしを信じなかった報いじゃ!」と突き放す博士は、「科学への過信が、あいつを狂暴な怪獣にしてしまった。もとは、かわいい宇宙生物の一匹だったのに」と、やるせない面持ちで嘆いている。

 しかし、気を取り直してギララに立ち向かい、「聞け、怪獣! わしが憎むのは、愚かな文明だ!」と叫ぶやいなや、首からさげた柴又帝釈天のお守りからビームが放たれ、怪獣は倒されたのだった……ここで、お目覚め。

 メロドラマとホームドラマの本家本元だった松竹も、高度経済成長時代に社会現象化した怪獣ブームにはあらがえなかった。

 「宇宙大怪獣ギララ」が公開された1967(昭和42)年は、ゴジラ誕生から13年後。

 ちなみに、「男はつらいよ」のシリーズ第1作が公開されるのは2年後のことで、山田洋次は、倍賞千恵子主演の「愛の讃歌」やハナ肇主演の「喜劇 一発勝負」を監督していた。

 「キングコングの逆襲」と「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」を製作した老舗の東宝特撮シリーズは、そこはかとなく凋落の兆候が現れていたものの、この年、大映はガメラシリーズ第2弾の「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」、日活は「大巨獣ガッパ」で殴りこみをかけ、邦画の怪獣大戦争の様相を呈していた。

 松竹も魔が差してしまったとしても、だれからも責められるいわれはない。

 アットホームな大船調ダウナー系怪獣映画をひっさげて、向こう見ずにも参戦してしまったのだ。

 

 

 だが、のっけから、『松竹……、敗れたり!』と目頭を熱くさせられるのは、やる気の見られない手書き文字のオープニングクレジットで流れる主題歌「ギララのロック」だ。

 ♪地球~、僕たちの星

  宇宙~、僕たちの世界

  未来~、僕たち明日

  みんな~、僕たちのもの

 男性コーラスグループのボニージャックスが歌う、この屈託のなさすぎる歌詞とメロディー(いずみたく作曲、永六輔作詞)は人びとの深い心の闇に白熱光を照射して、太古から本能に巣食っている、永久凍土のような恐怖心さえ解きほぐしてしまう。

 物語は、日本宇宙開発局の火星探査プロジェクトが、再三、謎の未確認飛行物体の妨害によって失敗した事件が発端となる。

 原因究明のため富士宇宙飛行センターから打ち上げられた宇宙船AABγ号も、どこからともなく出現したUFOの接近によって操舵不能に陥り、月面基地へ避難する。

 あらかじめネタばらししてしまうと、UFOは敵か味方か、なぜ人類の火星探査に執拗に干渉するのか、まったく解き明かされないまま、この映画は、なにごともなかったようにエンディングを迎えてしまうのだ。

 そのとんでもない潔さには、むかつきを忘れて、逆にほれぼれさせられてしまう。

 アトミック・アストロボートを、まんま略したAABγという探査船のネーミングも、その気になれば、なんと健気な駆けひき抜きの直球勝負と思えなくもない。

 さて、月面基地でヒノキ風呂(!)に浸かってクルーたちは疲労回復したものの、またもやUFOに火星行きを阻まれ、やむなく地球に帰還するのだが、そのとき探査船にいつの間にか付着していた謎の発光体を採集していた。

 この発光体が突然変異を起こし、身長60メートル、体重15,000トンのサイズまで巨大化してギララとなるわけだ。

 あえて言うまでもないことだが、ミニチュアセットのリアリティーや操演の巧みさ、着ぐるみ俳優の演技力など、特撮のテクニックは東宝の足許にもおよばない。

 怪獣特撮映画の本質には、異形のものへの愛と畏怖、文明破壊のカタルシス、メカへのフェティシズムなどがエレメントとして 内包されているべきものだが、この映画には、それらがすべて欠落している。

 その代償として力わざでぶちこまれているのが、お家芸のメロドラマ要素だ。

 ついにギララを無力化して宇宙へ送り返したエンディングで、火星探査中のクルー同士の三角関係で恋に破れた女性科学者は、「君の気持を、ちゃんと相手に伝えたのか? 愛には勇気も必要だよ」とお節介にも諭されると、「ええ、わかっています……ギララがそのことを教えてくれました」と天空をみつめながら、つぶやくのだ。

 頬ずりしたくなるほどの意味不明。

 ここまれくれば、もし松竹が総力を挙げて名匠小津安二郎に怪獣映画を撮らせていたら、という奇想に逃避するしかない。

 それはおそらく終始、ローアングルのカメラワークで、逃げ惑うことをあきらめてお茶の間の最後の団欒につどう人びとと怪獣のくるぶしあたりばかりがスクリーンに投影されることになるだろう。

 

 

 

 

《1967年/松竹/監督・脚本:二本松嘉瑞/脚本:元持栄美、石田守良/特撮監督:池田博/監修:光瀬龍/音楽:いずみたく/出演:和崎俊也、原田糸子、柳沢真一、岡田英次、穂積隆信、藤岡弘、ペギー・ニール、フランツ・グルーベル、マイク・ダニーン》