お願いだ。なんとかしてくれ。

 呼吸している空気の濃度が、真空の中で与圧されていた宇宙服に取りかえしのつかない裂け目が入ってしまったような勢いで薄くなり、意識が、手の届かないところへ遠のいてしまいそうだ。

 気のせいだということは、言われるまでもなく、わかりきっている。

 怠りなく換気されている映画館が酸欠になるはずはなく、超常現象で外と気圧の差が生じて空気が吸い出されているわけでもない。

 スクリーンに映しだされている、忌まわしい亡霊のように彷徨している男たちが言葉を発するたびに、人類を滅ぼしかねない毒ガスを少しずつうっすらと吐き散らかしているように思えるので、知らずしらず息苦しさをこらえきれなくなってしまうのだ。

 そこにいるのは、過去の映像アーカイブから抜き出され、合成されたアドルフ・ヒトラー、ヨシフ・スターリン、ウィンストン・チャーチル、ベニート・ムッソリーニの4人。

 まさに、第2次世界大戦の最高指揮官となった政治指導者たちの冥界チャンピオン・カーニバルなのである。

 

 

 

 あくまでも本人映像にこだわり、彼らが対話するせりふも手記や実際の発言から引用してつくりあげた、明確なストーリーのない、悪夢を閉じこめたような異形の映画は、ソクーロフ版「神曲」20世紀篇のようでもある。

 冥界の煉獄らしき領域にある、石造りの建物群の廃墟に、ヒトラー、スターリン、チャーチル、ムッソリーニの4人が現れ、「おまえは臭い」「お前もな」などと悪態を投げつけあったり、「私はなぜ、パリを燃やさなかったのか」などと、ひとりよがりの思いつきを独白したりしながら、さまよい歩いている。

 さらに4人には、それぞれ複数の分身が存在していた。

 チャーチルなら、正装のチャーチル、軍服に身を固めたチャーチル、厚手の外套を羽織ったチャーチルがいて、たがいを「兄弟」と呼びあっているのだ。

 彼らは、権力者の自己愛が生みだしたクローンなのだろうか。

 分身同士が認めあい、かばいあいながら、際限なく自己複製を繰りかえしそうで、ちょっとばかり身の毛がよだつ。

 

 

 

 4人が一堂に会したのは、そこに天国の門があるからだった。

 しかし、神の許しを得て通り抜けられた者は、ひとりもいなかった。そりゃそうだろ。

 天国の門を閉ざされ、さまよい続ける4人が、無機質な広場のような開けた場所にたどり着くと、熱狂した群衆が、顔を見分けられない、巨大津波と見まがいそうな黒いうねりと化して押し寄せてくる。

 音の荒波となって襲ってくる、地鳴りと雷鳴が入り混じったようなどよめきは、大衆が運命をゆだねた超人をたたえているのか、おびただしい死と破壊をもたらした極悪非道を非難しているのか、聞き分けられない。

 

 

 

 

 演壇のような高みから4人が人波を見おろしていると、戦火に倒れた兵士たちの無残な姿が見えてくる。

 むごたらしい屍となった、そのうちのひとりは目をむいて口を開き、「おまえら将軍どもを、ひとり残らず絞め殺してやる」と呪う。

 「兵士ども、消え去れ」と恫喝するスターリン。やはり、やましさは、あるのか。

 大量虐殺の重罪人として、とっくに業火に焼かれ、灰になっていてもいいはずのヒトラーやスターリンが、いまだに未決囚のような立場に置かれているのは不可解だったが、どうやら神は、地獄へ送りこんで罰するのは、まだ早いと裁定しているようなのだ。

 「またすぐ、彼らが必要になる」

 神は、すべてお見通しだった。

 独裁者は、自然の摂理のようによみがえりを繰りかえし、この地上から戦場がなくならないように、日夜はげんでいる。

 

 

 

《2022年/ベルギー・ロシア/監督・脚本:アレクサンドル・ソクーロフ/出演:アドルフ・ヒトラー、ヨシフ・スターリン、ウィンストン・チャーチル、ベニート・ムッソリーニ》