ノスタルジーに駆られて、人生の長さと濃さに応じて厚みのふぞろいな地層のように堆積した記憶を掘りさげてゆくと、かならず、いくつかの役に立つ鉱脈に突きあたる。

 心を踊らされたり、中毒をひき起こす夢見心地にさせられた記憶が集まり凝固してできたそれは、他人には値打ちを測りがたいこともあるが、心の貴重な「地下資源」であることは言わずもがな。

 庵野秀明の場合、小学5年生だった1971年ごろの地層に埋もれている、戦う改造人間ヒーローの鉱脈は、いまも触れれば無音の叫び声をあげ、人目をはばかりながら身悶えさせられるほどの電気を帯びている。

 とにかく、「痺れる」のだ。

 

 

 

 「シン・仮面ライダー」の公開直前、「庵野秀明セレクション」と題して地上波で放送された昭和のオリジナル「仮面ライダー」傑作選に寄せたコメントを読むと、庵野はあられもなく痺れまくっていた。

 「本放送時、35秒間の戦闘アクション、サイクロン号の変形描写に痺れ、心を奪われました」(第1話「怪奇蜘蛛男」)

 「ベランダから飛び降りた直後に変身、地上に着地してそのまま屋上へジャンプするカメラワークのカッコ良さに痺れました」(第2話「恐怖蝙蝠男」)

 「振り返るライダーの面のカッコ良さや編集技術の面白さが遺憾なく発揮された後半の戦闘シーンに痺れました」(第4話「人喰いサラセニアン」)

 「定番と違う効果音での変身過程の細かなディテールや空中でのウルトラパンチ対ライダーキックに痺れました」(第17話「リングの死闘 倒せ!ピラザウルス」)

 ほとんど帰依に等しいライダー崇拝は青春とともに純度を増した。

 山口県立宇部高校に在学中、自腹で買い求めた8ミリカメラで、仮面ライダーに捧げたアクションシーン満載の実写映画「ナカムライダー」を自主制作している。

 

 

 

 

 神話に語り継がれた英雄にまつわる遺物を発掘するように、ノスタルジーが記憶の鉱脈からすくいあげたイメージの重点は暴力性、つまり痛快なアクションシーンにあった。

 NHKが本作の制作現場に密着した番組「ドキュメント『シン・仮面ライダー』~ヒーローアクション挑戦の舞台裏」で、庵野はオリジナルの荒ぶるアクションシーンについて、こう熱弁している。

 「仮面ライダーの基本はアクション」

 「仮面ライダーの魅力は、『戦闘の段取り』を飛ばしたこと。アクションが全然つながっていない。それがカッコいい」

 「1対1(の戦い)のときは、どこか『大野剣友会』〈オリジナルの殺陣を担当したアクションチーム〉ぽさを1シーンでも入れたい。大野剣友会は、同じ殴りをひたすら続けるとか、同じ技をずっと応酬する」

 そんな思い入れのトーンにならって、「シン・仮面ライダー」も、アクションシーンとそれ以外のドラマの比重は等しくされ、「オリジナルを踏襲しつつバージョンアップ」を旗印として暴力表現に心血が注がれることになったわけだ。

 しかし、撮影は案じられていた通りにひと筋縄でいくはずもなく、現場で果てしない葛藤があったことがNHKのドキュメンタリーに克明に記録されている。

 延々と吐き出される、鉄槌を打ちおろすような庵野のダメ出し。

 「ショッカーの皆さんに気概がない。合わせることに意識が行ってて、『本郷猛を殺そう』というのが足りない」

 「意外性が一切ない。頭の中が殺陣でいっぱいになっている」

 「殺陣ではなく、殺し合いを演じてもらいたい。『技を決めよう』という意識ではなく、『相手を殺そう』という意識で」

 「全部アドリブでやってほしいぐらい。段取りなんていらないんです!」

 

 

 

 

 オリジナルのアクションの神髄は、段取りで組み立てられた様式美にあった。

 それはまさに、洗練された危険な群舞を見せられているようだった。

 ノスタルジアが原点回帰への道だとすれば、その伝統の味わいは残したい。だが、予定調和の計算が透けて見えてしまうと、映像はたちどころに生気を失い、虚実皮膜の綱渡りから真っ逆さまに転落してしまうのだ。

 段取りのない取っ組みあいは、庵野とアクション担当のスタッフの間で起きていた。

 終盤の現場は、アクションの構想がつかめないまま殺陣のプランをことごとく否定されたスタッフ全員が台本を投げ捨て、立ち去る寸前まで、険しく張りつめていたらしい。

 ドキュメンタリーで、庵野は、当時の心境を、こう吐露している。

 「カッコいい人たちが、泥仕合のような見苦しいことをしているという、それでも嘘なんだけど、お客さんが本物かなと錯覚しないと、この映画は失敗する」

 ノスタルジーが呼び覚ましたファンタジーとリアリティーを、どうすれば協調させられるのか。オリジナルを知らない世代の観客を、約半世紀前の我が身と同じように痺れさせたかった庵野の苦悩は、確かに計り知れない。

 

 

 

 「ノスタルジーは捨てたくない」という軸足の置き方のためか、ストーリーそのものにはアッパレなほど目新しい要素は、それほど見当たらない。

 しいて挙げるなら、オリジナルでは世界征服をたくらむインターナショナルな謎の秘密組織だったショッカーの設定が「魔改変」されていることか。

 日本の大富豪によって創設されたショッカー=SHOCKER(Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling:計算機知識を組み込んだ再造形による持続可能な幸福組織)は、そもそも単純明快な悪の組織ではない。

 その主張に従えば、むしろ「愛の組織」なのである。

 人工知能によって導きだされた「最大多数の最大幸福が人類の幸福ではなく、最も深い絶望を抱えた人間を救済する行動モデルが人類の目指すべき幸福である」という理念を実現するべく、絶望の淵で立ちすくんでいる人間に人体強化手術を施していた。

 至高の善の追求が邪悪をもたらすという逆説。世にいう「庵野節」が、またしても世界崩壊と新生のアリアを地を這うような低音で歌いあげている。

 

 

 

 

 

《2023年/東映/原作:石ノ森章太郎/監督・脚本:庵野秀明/撮影:市川修/デザイン:前田真宏、山下いくと、出渕裕/美術:林田裕至/アクション監督:田渕景也/音楽:岩崎琢/出演:池松壮亮、浜辺美波、柄本佑、森山未来、西野七瀬、塚本晋也、手塚とおる、松尾スズキ、長澤まさみ、本郷奏多、市川実日子、大森南朋、松坂桃李》