弔いは、死を浄化(カタルシス)する。

 死者の物理的な死の進行を終わらせて穢れをはらい、観念的な、追憶の対象物にする。

 それがなければ、死者は無残に朽ち果て、野ざらしとなって疎まれる末路をたどることになる。

 死のさだめは、「場所」にもやって来る。

 災厄がふりかかったり、見限られたりしたために、人のいる気配すらなくなり、打ち捨てられた人工物の腐食と崩壊が始まる。

 弔われなかった死は、その場所を廃墟にする。かつてそこで生活していた人びとの残像めいた残留思念を、すり切れたぼろ布のようにまとわりつかせながら、干からびて白骨をのぞかせた骸となって、よそ者が近づくのを拒むようになる。

 本作が、まさにその、丁重に弔われることなく見捨てられてしまった場所を巡り、鎮魂する旅のアドベンチャーを描いているのは、新海誠監督が、「場所を悼む」物語にしたかったからだという。

 

 

 

 

 主人公の岩戸鈴芽(すずめ)は宮崎県の片田舎で叔母とふたりで暮らす女子高生。

 ある朝、登校の道すがら、見知らぬ美形の大学生、宗像草太に、廃墟の在りかを尋ねられる。

 思いあたる場所は、近くの山中にある温泉街で、いまはだれも寄りつかないゴーストタウンと化していた。

 そこには「後ろ戸」と呼ばれる扉があり、それを開けると「常世(とこよ)」、つまり黄泉(=死後)の世界に通じている。

 後ろ戸は唐突に開いて、向こう側の異界から赤黒い巨大な渦巻きのような「ミミズ」が飛び出し、地面に横倒しになると、大地震を引き起こす。

 

 

 

 草太は、開いてしまった後ろ戸を迅速に閉じて災害がもたらされるのを防ぐ「閉じ師」の家業を継いで、旅回りしていたのだった。

 後に草太は「人の心の重さが、その土地を鎮めている」と鈴芽に説明している。

 ならば、人がいなくなり、荒廃してしまうと、その無形の重しが失われ、そこから、地底に蓄積されていた歪みのエネルギーが荒ぶる力となって噴き出すのだろう。

 崩れかけた温泉街の後ろ戸から出現したミミズは、そんな事情を知らない鈴芽をパニックに陥れたが、他のだれの目にも見えていなかった。

 彼女にも、現世(うつしよ)と常世をつなぐシャーマンの資質が備わっていたのだ。

 草太に手を貸して後ろ戸を閉め、危機一髪のところでミミズを退散させた鈴芽は、つむじ風に巻きこまれるようにして閉じ師の旅の道連れになる。

 九州を出発して、四国の愛媛県、神戸、東京へと、ひと息つくいとまもなく、ひたすら北上するロードムービーの終着点は、東日本大震災の被災地の宮城県だ。

 

 

 

 震災当時4歳だった鈴芽は、ひとり親の母を津波にさらわれ亡くしている。

 母親の面影がある女人の幻影が、時折フラッシュバックしていた彼女は、意識の最深部で、みずからの救済も願いながら、その場所をめざしていた。

 とりとめもないおしゃべりが、不意に言葉少なになるように物語のトーンが変わり、現実に起きた巨大災害の記憶が呼び戻されるのには理由があった。

 気まぐれにパンドラの箱がこじ開けられ、おびただしい死と破壊がもたらされた不条理な悲劇に打ちのめされもせず、無反応でいられるクリエイターなど稀なはずだ。

 当時38歳だった監督も例外ではなく、「それは40代を通じての通奏低音になった」と小説版のあとがきに書いている。

 「自分の底に流れる音は、2011年に固着してしまったような気がしている」

 

 

 たしかに、「君の名は。」(2016年)の隕石の落下は大地震のメタファーになっていたし、「天気の子」(2019年)の水没する東京には、あのときから遅効性の疫病のように蔓延した、敗北感を入りまじらせた無常観が投影されていたと考えられる。

 だが、いつかかならず、けっして元どおりにはならない被災地を、ひるまずに直視した物語が描かれなければならなかった。

 「場所を悼む」の発言の底意には、そんな生まじめなクリエイター魂を潜ませていた。

 物語は、疼痛をともなう屈託を抱えていた監督のカタルシスも成就させたに違いない。

 

 

 

 

《2022年/コミックス・ウェーブ・フィルム/原作・脚本・監督:新海誠/作画監督:土屋堅一/美術監督:丹治匠/撮影監督:津田涼介/音楽:RADWINPS、陣内一真/出演:原菜乃華、松村北斗(SixTONES)、深津絵里、染谷将太、伊藤沙莉、花瀬琴音、花澤香菜、神木隆之介、松本白鸚》