〈ネタバレあり〉
無知が美徳とされる、どころか義務づけられている、洞窟に閉じこめられてしまったような暗愚の世界では、その野蛮な見せしめも、めくるめく、いっときの座興にすぎなかった。
ネズミの巣穴の中にいたるまで、くまなく家宅捜索されて、かき集められた本が、たっぷり浸るほどケロシン(灯油)を浴びせられ、火炎放射器で容赦なく焼き尽くされている。
本は、それを読むことも、持っていることも禁じられているのだ。
炎に包まれた本は、道理に合わない処罰に抗議しているのかと思わせるほど、激しく燃えかすを舞いあげているが、ほどなくして、瀕死の鳥がはばたきながら失速するように、無残に地面にたたきつけられる。
本作にある、この焚書(ふんしょ)のシーンでは、燃えかけの本のタイトルがいくつか読みとれる。
チャールズ・チャップリンの自伝、ラブレーの「ガルガンチュアとパンタグリュエル」、ナボコフの「ロリータ」、メルヴィルの「白鯨」、サルバドール・ダリの画集、「お母さんと一緒に読むABCの本」などなど。
監督のトリュフォーは茶目っけを働かせ、自身も執筆していた映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」も火だるまにしている。
有史以来、積み重ねられ、からみあうように枝葉を広げてきた人類の知識が、手あたり次第に判読不能の灰にされてしまうのだ。
原作は、米国のSF・ファンタジー作家、レイ・ブラッドベリが1953年に発表したディストピア小説「華氏451度」。タイトル(摂氏に直せば233度)は、紙が自然発火する温度を表している。
舞台となっている近未来社会は、うわべは普通選挙で大統領が選ばれる民主主義の政治体制の体裁をとりつくろっているが、内実は、まったく人間味のない全体主義社会だ。
人びとは、経験の記憶や学んで得た知識にもとづいて深く内省する思考を止め、刹那的な享楽だけ追い求める無力な体制順応主義者になるよう飼いならされている。
そのために、批判的な思考力を養う、ありとあらゆる本が駆逐され、情報メディアはテレビとラジオしかない。
活字を読まなくなった大衆は例外なく、それなくしては生きられない依存症のようにテレビ漬けになっている(映画では、自宅でくつろいでいる主人公が新聞らしき印刷物を広げて読んでいたが、どのページにもマンガしか載っていない。しかもセリフの文字がひとつもない!)。
結果、人間の思考は決まりきった型にはまり、その場しのぎの反射的な受け答えしかできなくなり、記憶力も衰えてしまっている。
仲むつまじく見える若夫婦でも、ふたりがいつ、どこで最初に出会ったのか、まるで思い出せないのだが、忘れっぽいのは日常よくあることなので、誰も悲観していない。
本の不法所持は、人びとを相互監視させる密告制度で取り締まられている。
発覚したら、ファイアマン(本来は、火を消す「消防士」のことだが、この世界では「昇火士」と呼ばれている)の一団に急襲されて本は家ごと焼き払われ、身柄を拘束された持ち主も、ゆくえ知れずになってしまう。
主人公のガイ・モンターグも、出動するたび、燃え盛る炎に恍惚としてしまうほど仕事熱心なファイアマンだ。
ところが、彼には無意識に活字に反応する盗癖があり、現場でくすねた本を数十冊も自宅に持ち帰っていた。
禁断の蔵書は、しまいこまれたまま読まれることもなく、人目に触れさえしなければ、秘蔵の戦利品コレクションのように扱われたかも知れないし、いずれ持てあまされ、持ち主の手で、紙の不発弾のように人知れず処理されたかも知れない。
しかし、モンターグがしたことは、そのどちらでもなかった。
夜がふけても眠らずにテレビの電源を切り、片っぱしから貪り読み始めたのだ。
噛み砕いては繰りかえし反芻するように読みこんで、文脈に裏打ちされている他者の思索を浮かびあがらせ、記憶に刻みつけようとしていた。
禁忌を犯す行為を見とがめた妻に、モンターグは、こう反論する。
「僕の家族は本だ!」
「本の背後には人間がいる。それに惹かれるんだ!」
彼はすでに、飼い主の言いなりに動く羊の群から抜け出し、体制の反逆者になっていた。
映画では、原作と時系列が異なっているので、モンターグの変心の理由はわかりにくいのだが、小説では、ある惨劇に打ちのめされて、権力への盲従を疑問に思うようになる。
いつものように密告の通報を受けて出動したある夜、現場は旧市街にある、築100年は越えていようかというあばら家だった。
屋根裏に大量の本を隠し持っていた家主の老女は、ケロシンを撒かれても逃げようとはせず、みずからマッチをすって、本とともに焼死してしまったのだ。
あくる朝、モンターグは発熱し、出勤する気力も失せてしまう。
夫の変わりようにとまどう妻に、彼は、こんな激白をして驚かせた。
「女は燃える家に残ったんだぜ。あれだけのことをするからには、本にはなにかがある、ぼくらが想像もつかないようなものが あるにちがいないんだ」
「そこではじめて本のうしろには、かならず人間がいるって気がついたんだ。本を書くためには、ものを考えなくちゃならない。考えたことを紙に書き写すには長い時間がかかる。ところが、ぼくはいままでそんなことはぜんぜん考えていなかった」
妻の通報で追われる身になったモンターグは、逃走の果てに放浪者のキャンプにたどり着く。そこは、彼と同じような理由で反逆者になってしまった人びとの隠れ家だったが、老若男女、人種も異なる彼ら彼女たちは、たがいを「ブックピープル」と呼び合っていた。
ひとりが1冊の書物を丸暗記することで、みずからが本になり、活字になった人類普遍の記憶を伝え残そうとしていたのである。
キャンプはまるで、紙の本が1冊もない移動図書館のようなものだった。
冒頭から戦争の予兆が、不快な静電気のようにはりつめている原作の結末は、最終核戦争が勃発し、本を読まなくなった文明は滅んでしまう。
だが、トリュフォーは、終末観に彩られたエンディングにせず、戦争を起こさなかった。
小雪がちらつく冬の湖畔を、それぞれの人生を背負って引き寄せられてきたブックピープルたちが、自分の選んだ本を暗唱しながら行き交う、物悲しい詩情にあふれたラストシーンになっている。
映画全体のデザインコンセプトにも近未来SF感が希薄で、同時代か、近過去の世界のドラマに見入っている感覚になるが、リアリティーは損なわれていない。
これは、もはや予言ではなくなっていたからだ。
いま、デジタル空間に埋没している体制順応主義者にしてみれば、なにをいまさらと鼻じろむ映画だろう。
《1966年/イギリス/原作:レイ・ブラッドベリ『華氏451度』/監督:フランソワ・トリュフォー/脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール/撮影:ニコラス・ローグ/音楽:バーナード・ハーマン/出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティー、シリル・キューザック、アントン・ディフリング、アレックス・スコット》