そのまなざしは、人の形をとろけさせる。
肖像画家の視覚は、向きあっている人物の輪郭を、衣服をふちどる一本の長い糸をシュルルルと抜きとってしまうようにしりぞかせ、隠れていた、もうひとつの輪郭に閉じこめられている無形の情報を浮きあがらせる。
見たこともない記号の意味のない配列のようなそれは、その人を、その人たらしめている、魂のDNAとでも呼ぶほかない。
だれにでもあつかえるわけではない解析装置を作動させて読み解き、心とその容れ物、それぞれの形質が配剤された知られざるドラマを1枚の画布に凝縮させようとする。
マリアンヌはしかし、納得がゆく肖像画を仕上げられなかった。
伯爵夫人から嫁入り前の娘を描くよう頼まれ、孤島にある館に呼び寄せられていた。
モデルになった娘エロイーズは、無難に描きあがった絵をひとめ見るなり言い放った。
「この絵は私に似ていない」
マリアンヌは思わず取り乱し、絵具が乾いていない画布に布を押しあてて顔を消し潰してしまう。エロイーズに対してだけでなく、自分に対しても抗議するかのように。
時は18世紀。
マリアンヌは、父親から二代にわたる肖像画家だ。フランス北西部、ブルターニュ地方の沖合にある島の貴族から頼まれた仕事は、イタリアのミラノへ嫁がせようとしていた娘の見合いのための肖像画だった。
ところが、娘のエロイーズは縁談をかたくなに拒み、絵のモデルになることも承知しなかった。そこで母親が一計を案じ、マリアンヌを、ただの散歩相手だと紹介して間近から観察させ、ひそかに絵を描かせていた。
完成作は、マリアンヌとエロイーズのどちらをも同時に不愉快にさせたのだ。
ストーリーは、ここでシフトチェンジし、サスペンスフルに加速し始める。エロイーズが唐突に心変わりして、いさぎよくモデルになろうと申し出たのである。
描き直しの猶予は5日間。画家とモデルはその間、冥界から亡き妻を連れ戻そうとして禁を破り、ふりかえってしまったオルフェの神話の寓意を語り合ったり、侍女ソフィの密かな堕胎手術に立ち会ったりして、せきたてられるように親密になる。
ふたりの鼓動の高まりが鮮烈に映像美とシンクロするのは、島の女たちがつどう夜祭りのシークエンスだ。
牧歌のような俗謡が歌われるなか、燃えさかる焚火越しに見つめあうふたりは、もはや後戻りできない境界を踏み越え、求めあっていた。風にあおられてエロイーズのドレスに燃え移った火は、すぐに消しとめられたが、すでにふたりは、だれも寄せつけない炎に包みこまれていた。
女性が抑圧されていた時代に、このふたりのヒロインは、島で孤立することによって、不条理な忍従を強いられる男社会から、つかのま解放されていた。
彼女たちは、不変の愛だけでなく、不屈の自由にも目覚めたのだった。
《2019年/フランス/監督・脚本:セリーヌ・シアマ/撮影:クレア・マトン/出演:ノエミ・メルラン、アデル・エネル、ルアナ・バイラミ、ヴァレリア・ゴリノ/2019年カンヌ国際映画祭脚本賞&クィア・パルム》