おはようございます 江戸散歩です

 

 

 

江戸東海道を歩くシリースは、保土ヶ谷宿の本陣跡にやってきました

 

踏切を渡った国道1号線にあります

 

 

 

 

 

 

MAP左の⑬です

 

 

 

 

 

 

 

 

  慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が 「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。


 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。 保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)の 子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿 における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫(せいべええっぽ) が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。

 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の 脇本陣がありました。

『本陣跡』説明板より

 

 

 

 

 

 

 

 往時建坪が270坪もあり部屋数18、畳数140は東海道の本陣の中でも十指に入る規模だそうです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 保土ヶ谷宿は、神奈川宿から4.9㎞、戸塚宿まで8.8㎞の位置になります

 

 

この屋根の飾りは何かの魔除けでしょうか?

 

 

 

 

 脇本陣(藤屋)跡

 

保土ヶ谷区は、東海道の説明板が至る所にありますので、1つ1つ確認して行くのも楽しいのですが、前に中々進みません(*_*)

 

 

 

 

 

 

 

 MAPも2枚目となります。

 

 

この区間は、一里塚がありますね

 

 

 

 

 

 

MAP⑮消防署です

 

 シャッターには、東海道を行き来する大名行列が描かれています

 

下に〜下にの掛け声で街道行き来する商人、町人、農民は土下座して通り過ぎる光景を時代劇で見かけます

 

江戸時代は、士農工商と言われる身分の順番がありました

 

「工」とは?

物を作る職人さんですね

 

 

江戸時代も時が過ぎて行くと、商人の実力が上がって来て、武士も商人(金貸し)から借金や賄賂を受け取る様になりました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脇本陣(水屋)跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脇本陣(本金子屋)跡

 

ここは、まちかど資料館があります

あいにくの休館日らしく閉まっています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こちらは、内部を公開しているんですかね

本陣を見学出來る機会は滅多に無いので残念です

 

 

 

 

 

 

 

 今井川を渡りますが、写真の中洲に立派な樹があります

 

わざわざ中洲にしてでも、残す価値があるのでしょうね

 

 

 

 

 

 

 

 

 一里塚跡と上方見附跡

 

ここは、保土ヶ谷宿の出口らしいです

京都側だから上方とは洒落ですかね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 石垣が一里塚らしい!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今井川を渡る橋は、擬宝珠付きです

 

 

 

 

 

 このけやきは立派な樹です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外川神社

 

 

 江戸時代から保土ヶ谷宿の内に出羽三山講がありました。幕末の頃、その講元で先達でもあった淸宮輿一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝した際に、


羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請し、自分の屋敷内(現在の地)にまつりました。

 

はじめ外川仙人大権現と称しましたが、明治二年の神仏分離令により、

日本武尊を祭神と定め、社名を外川神社と改めました。

その神験は著しく、ことに小児の虫封じや航海の安全に御利益があったとして、遠近から参詣する者が絶えませんでした。

 

 

 

 

 保土ケ谷宿の松並木 (案内板より)


我が国における街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代までさかのぼりますが、

全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。

慶長9年(1604年)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。

以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、

官民挙げて大切に保護されました。

保土ケ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、

広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。

その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されてきましたが、

時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近に

わずかな名残を留めるだけになってしまいました。

この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った

約300mの区間に松などの木々数十本を植えました。

 

 

 

保土ケ谷宿の一里塚 (案内板より)

松並木と同時期、街道の距離の目安として、

日本橋を起点に一里(約4km)ごとに築かれたのが一里塚です。

一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、

その上には遠くからでも目立つよう榎や松などの木々が植えられていました。

保土ケ谷宿の一里塚は日本橋から8番目に位置し、この附近(現在の車道上)にありましたが、

古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。

その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。

この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような

「五間(9m)四方」に相当する大きさの塚を築くことができませんでしたが、

塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。
 

 

 

 

 

 

 

 東海道と言えば箱根駅伝

 

この先には駅伝最大の難所の権田坂があります

旧東海道の権田坂に挑戦です