おはようございます 江戸散歩です





大山街道歩きが終わりましたら、次は都内に戻って佃島へ行ってみました







佃島は、徳川幕府が嘉永年間(1624~1644)に隅田川にある石川島の近くの百間四方(約200メートル四方)の干潟を作りました

佃の由来はと言うと、本能寺の変に大きく関係します

時は、1582年6月2日早朝に明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で倒れた時、家康の一行はわずかな手勢とともに堺にいました。

三河の国(愛知県東部)の城主である家康がなぜ堺にいたのかというと、5月に信長の安土城を訪ねた折、ついでに堺へ回って小旅行を楽しんでいたからである。

知らせを聞いた家康は、「さあ、たいへん今度は自分がヤバイ」と直感したに違いない。
急いで堺を脱出し、三河へ戻ろうと思ったが、居場所もルートも光秀側には知られている。
そこで三河とは逆の方向である大坂、兵庫を回る作戦を立てた。神崎川(淀川の分流)をそっと渡らなければならなかったが、運悪く大水で立ち往生。


さぁ 困ったぞ


















なんとしても岡崎城へもどらねば……家康一行は決死の覚悟で脱出奇策をとりました。


ここに救世主のごとく現われたのが、近くの摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の庄屋・森孫右衛門を筆頭とする漁民たち。
手持ちの漁船と、不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食として用意したのです。これが佃煮の始まりです



気候の悪い時期に人里離れた山道や海路を必死に駆け抜けねばならない一行にとって、この小魚煮がどれだけ身を助けてくれたか、ありがたいものだったかは、言うまでもありません。

無事家康一行は一路岡崎へ向かい三重の野山を駆けずり回り、道中伊賀・甲賀に忍びの者に警備をして貰い、無事三重より海路岡崎に帰ったそうです


以来、佃村の人々に対する家康の信任は、特別なものになりました。
後の大阪の陣に備えて、佃村の漁民に大名屋敷の台所へ出入りできる特権を与え、大阪方の動向を探る隠密の役割をつとめさせたという言い伝えもあります。


その後、徳川家康は江戸幕府開府を行い、江戸の改革を行います


江戸の台所として魚の確保が必要です

摂津国佃村の漁民との関係は、これで終わらなかった。
家康は幕府創設期から佃村の漁民を江戸に連れてきて、恩賞として幕府は寛永年間(1624~1644)に隅田川にある石川島の近くの百間四方(約200メートル四方)の干潟を漁民に与えた。
築島工事の完成後、佃村の漁民33名が移住。この島を漁民の故郷にちなんで佃島と名付けたのである。
江戸の海や川での漁業を許可すると同時に、将軍へ白魚をはじめとする魚介類を献上させた。



江戸の湊は魚を獲る漁船が沢山描かれている江戸名所図会








佃煮は、佃島の漁師が献上品である白魚などの余りを塩で煮付けたものが始まりだといわれている。
保存食としての生活の知恵だった。
離れ小島の佃島は、時化(しけ)で食料の流通が止まったときにも安心だし、漁に出るときにも腐らない佃煮は便利な食べ物だった。
佃島は漁師町として発展し、進んだ漁業技術を江戸にもたらした。日本橋の魚河岸の基礎を築いたのも佃島の漁師たちである。






江戸の湊で獲れた魚は幕府へ献上するのが第一目的ですが、全部は献上しきれません
余った魚は日本橋川に船を並べて簡易魚市場を始めました
幕府は佃漁民にこの様な恩恵を与え続けます




これが日本橋河岸の始まりで、その後日本橋の発展に繋がっていきます






家康と佃の漁民にはこんな温かい関係があったんですね
そうそう!三重の山中で家康一行を警備した伊賀・甲賀の者たちも江戸へ呼び寄せ、江戸城を警備させる重要な役割を与えています


家康の懐の深いところが長く続いた江戸幕府の基礎になったのではないでしょうか






現代の佃は島では無く、埋め立ての中に取り込まれましたが、江戸から続いている佃の気質は受け継がれているのです









佃の町並みを歩いてみましょう