おはようございます 江戸散歩です



旧東海道川崎宿の続きです


※フレームアウトしている画像はクリックして頂けると画像が見られます


旧東海道は当時の面影がほとんど残っていません























一行寺
浄土宗一行寺は、江戸時代の初め川崎宿の整備が進む頃に開創し、閻魔信仰で大いに賑わった
また非常の際は、田中本陣の避難所にも当てられていた

この日は、平日でしたが、天気が悪いせいかお休みでした
閻魔様に会いたかったですね



















東海道川崎宿 田中本陣(下の本陣)と田中休愚
川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永5年(1628)に設置されている。 田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下(しも)の本陣」ともいわれた。 本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。 その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家には許されなかった門や玄関構え、 上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、 信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。 建物の改造や再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。 本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、 江戸後期には、大名家の財政難や参勤交代の緩和により、衰えも目立った。 安政4年(1857)、アメリカ駐日総領事ハリスが、田中本陣の後輩ぶりを見て、 宿を万年屋に変えたことは有名である。 明治元年(1868)、明治天皇の東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したとの記録がある。 明治3年(1870)、新政府は天然痘流行を機に各地で種痘を行ったが、 川崎では11月から12月にかけて6回、田中本陣で行う旨の布達が出されている。 宝永元年(1704)、42歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、 幕府に働きかけ六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、 渡船賃の収益を宿の財政にあて、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。 さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、 幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」 (みんかんせいよう)を著した。 これによって、享保の改革を進める八代将軍吉宗に認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、 晩年には代官となったのである。
田中本陣と休愚
田中(兵庫)本陣は、寛永5年(1628)に設けられた宿内最古の本陣である。 ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の農政を論じた「民間省要」の著者としても知られる。
解説版より

当時の本陣の跡は何も残っていませんが、解説板のみとなっています
やはり、都心部となれば本陣などの遺構を残すことは奇跡的なことです













昭和の看板建築が所どころに残っているのもこの賑わう一画には不思議な光景です












宝暦十一年の大火
川崎宿二百年で最大の大災
小土呂から六郷の渡しまで町並みはほぼ全焼
宗三寺、一行寺も焼けた
再三の大災から立ち直った川崎宿だが、今、宝暦以前の歴史文献は見当たらない












助郷会所
宿駅に常備する伝馬人足の不足を補う助郷制によって近在農村より徴用された人馬は、助郷会所に集められた。 助郷制は、川崎周辺の農村の労働負担となり、窮乏を招く要因となった。

助郷(すけごう)は、日本における労働課役の一形態。江戸時代に、徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のことを言う。

また、夫役の対象となった村を指して言う「助郷村(すけごう むら、すけごう そん)」も、略されて「助郷」と呼ばれる場合がある。
  wikiより転載

街道が賑わうほど人の行き来が増え馬や飛脚の数が足りなくなりました
それが、周辺地域の農村が貧窮を伴うとは皮肉なことです













宗三寺
宗三寺は、中世の河崎庄において信仰を集めた勝福寺の後見とみられる宿内一の古刹である。 寺内には、かつて宿の賑わいの中で働いた飯盛り女を供養する石造物が今に残る。


中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、 その時代荘内勝福寺という寺院があり、弘長3年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、 五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。 勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後進とみられ、 戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。 「江戸名所図絵」に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、 本尊はひくい肉鬢、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紐を結び、 大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。 今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、 川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。
 川崎市HPより転載




宗三寺本堂












この建物は赤線を思わせる雰囲気が残っています
この近くの堀之内は今も現役で賑わうソープランド地帯です
宿場時代からの遊郭→赤線地帯→ソープランドの図式ですが、川崎は一時日本三大ソープ天国と名を頂いています












川崎宿の由来
慶長6年(1601)徳川家康が東海道を新たに整備して、三十九宿を定めたが、 川崎は品川宿と神奈川宿の合の宿で、元和9年(1923)家光の時に宿駅に追加制定され、 いわゆる東海道五十三次となった。 慶長5年(1600)江戸三大橋の一つとして六郷大橋(109間)が架けられたが、度々の洪水で破損し、 元禄元年(1688)から船渡しとなった。 川崎宿は、久根崎・新宿・砂子・小土呂四町よりなり、 「六郷の渡しを渡れば万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」と唄われた。 徳川将軍の四代にわたるお大師様への厄除け参詣が、江戸庶民の大師詣を盛んにし、 大師には門前町ができて大いに賑わった。 明治5年(1872)新橋-横浜間に鉄道が開通したが、大師詣客のため、 その中間に唯一川崎駅が設置されたことは、驚きに値する。 しかしその後、東京-横浜間の通過町としてさびれたが、明治末頃から六郷川を利用して川岸に産業が興り、 大正・昭和には臨海部の埋立地に重化学工業が林立し、日本経済をリードする一大産業都市に発展した。 当川崎宿は宝暦や文久の大火、安政大地震、また、昭和20年4月(1945)の米軍B29の大空襲のため、 江戸を物語る面影は全て焼失し、今では浮世絵や沿道の古寺の石造物から、 わずかに往時の川崎を偲ぶのみである。
 (川崎・砂子の里資料館) 















問屋場
伝馬人足、飛脚、本陣の休泊などの宿場業務を監督する問屋場。 川崎宿では、約30名の問屋役人が昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙をきわめた。


















更に旧東海道を進んで行きますと「川崎・砂子の里資料館」があります
浮世絵のコレクションを集めた資料館、館内は撮影禁止のため画像はありませんが、間近で浮世絵が見られるのは嬉しいですね










市役所通りのJR川崎駅方面



市役所方面


この付近が川崎の中心地です
商業地としてもかつては大層賑わっていましたが、現在は西口のラゾーナに買い物客を取られているのは残念ですね












いさご通りに入りました












東海道と大師道
東海道。 江戸から京都まで、道のりは125里20町、およそ502キロ。 徳川家康にも特に重視され、整備が急がれた街道である。 大名行列の多くがここを通り、物資が行き交い、東西の文化交流が進んだ。 東海道川崎宿は元和9年(1623)、他の宿より遅れて宿駅となり、 今の小川町あたりから六郷橋まで、小土呂、砂子、新宿、久根崎の四町で構成された。 江戸後期から幕末にかけて、旅籠や茶店などが一段と多くなる宿場の最盛期には、 渡し舟を乗り降りする旅人、川崎大師へ向かう参詣客などで大いに賑った。 川崎大師は、当時から日帰り参詣のできる関東屈指の霊場として、広く江戸庶民の人気を集めていたのである。 江戸と京都を結ぶ東海道。 その宿駅として、また同時に、それに続く大師道の拠点として栄えた川崎宿であった。
 (財団法人 川崎市文化財団)



















いさご通りはこの看板が点々と置かれ、商店のシャッターも浮世絵が描かれていて、商店街ぐるみで川崎宿を盛り上げる努力が感じられます












小土呂橋交差点に出てきました
川崎宿もここまでのようなので旧東海道歩きはここで終了としました












この近くに映画街があるので覗いてみます

川崎チネチッタ
昔はミスタウンと呼ばれ、映画館やボウリング場、スケート場があったと記憶しています
現在住んでいる前の住まいはここから市電に乗っていける場所に住んでいました

いまや、五十年前の事です


懐かしい面影は何も残っていません











銀柳街商店街
昔からアーケード街で数十年ぶりで歩いてみます
当時は買い物に来ると必ずチョコレートパフェを食べさせて貰った甘味処やとんかつをナイフとフォークで頂いたとんかつ屋さんなどは今や姿を見る事は出来ませんでした












JR川崎駅前
いつの間にか雨も上がっていました








旧東海道歩き、地元の川崎宿はいかがでしたか

この続きはいつか歩きたいと思います
(当面は地元の大山街道歩きを続けていきます)