こんばんは 江戸散歩です



下町七夕まつりから入谷鬼子母神で行なわれた朝顔まつりにやってきました



恐れ入谷の鬼子母神


「恐れ入りやした」の「入りや」と「入谷(東京都台東区の地名)」を掛け、入谷の真源寺(台東区下谷)に祀られている「鬼子母神」を続けて言ったしゃれ。
鬼子母神は出産・育児の女神で、「きしぼじん」とも読む。



言問通りに120軒の朝顔業者が露店を出す朝顔まつり

この入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政の頃です。
最初は御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽培されておりましたものが、御徒町の発展と江戸幕府の崩壊に伴いまして、
入谷に居りました十数件の植木屋が造るようになります。







そしてその出来栄えが大変素晴らしかったので、明治中期になりますと、往来止めをしたり、木戸銭を取って見せるほど有名になります。
なぜ入谷の朝顔がこんなに盛んになったのかと言いますと、入谷田圃の土が朝顔造りに適していたこともありますけれども、
当時流行しました朝顔と言いますのは「変わり咲き」です。
この「変わり咲き」と言いますのは朝顔の花が、桔梗の花のように咲いたり、牡丹の花のように咲いたり、二重に咲いたりして、
花粉の交配によって色々な花を咲かせる事ができたので、最盛期には一千種類もの朝顔があり、
変化にとんだ花を咲かせ楽しませてくれてたのであります。



もちろん現在のような丸い朝顔も江戸末期には大輪咲き朝顔とし盛んに栽培されておりましたが、
変化咲き朝顔の不思議な美しさが江戸の人々にブームを巻き起こします。
当時の模様を下谷繁盛記(大正三年明治教育社発行)によって観ますと、
「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは、明治二十四・五年頃にして、其の頃は、朝顔を造る植木屋十数件を数え、
入谷の通りは、毎朝、往来止めとなる程なりし也。
殊に、当時は、周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼しき朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たり敷かば、
観客頗る多く、非常の盛況を呈したり。」と記載されております。





花柄の浴衣には朝顔がピタリです








入谷鬼子母神は満治二年(一六五九年)静岡県沼津にあります大本山光長寺の第二十世高運院日融上人が、本山に勧請してございました一寸八分の御木像の鬼子母神様を持ち、江戸に出て、現在の地に仏立山・真源寺を建立し開基と成ります。この鬼子母神像と言いますのは大本山光長寺の開基である彫刻の名手、中老僧日法聖人が彫られ、師匠でございます日蓮聖人が開眼せられたと伝えられています。










また、明治二十年七月五日発行の朝野新聞には、「府下にて朝顔の名所といえば誰も入谷たることを知る位なるが、
同商も追々欧州植物培養の方法に倣い近年は頗る進歩し、昨年の出来に比較すれば、本年は余程の上出来にて、
来る十五日より縦覧さする由なるが、本年は品数も数百種の多きに及び、頗る見事なるべしといえば、
朝寝坊先生は早起きして此の美花を観玉へ。」とあるぐらい有名に成ります。



 ところが、このように大変盛んに造られておりました入谷の朝顔も、
世情が怪しくなって来ました大正二年意地づくで踏み留まっていた植松(植木屋)の廃業を最後に、
とうとう入谷の地から姿を消してしまいます。
それに伴い変化朝顔もいつしか人々から忘れられて現在のような円形の朝顔えとその主流は変わって行きます。
そしてそれから三十五年立ちました昭和二十三年、戦後のすさんだこの世の中を少しでも明るくしようと言うことで
、地元有志の方と下谷観光連盟(昭和25年)の協力を得て、江戸情緒豊かな夏の風物詩、入谷の朝顔市が復活したのであります。  以上入谷朝顔まつり公式HPより抜粋




さて、今回買い求めた朝顔です








出来るだけ珍しい朝顔が欲しかったのでマジックオーシャンという品種

とても青が綺麗な品種でひときわ目立っておりました









このお嬢さんが勧める朝顔もよかったのですが、相方に肘鉄をくらいそうなので止めにしました