こんにちは江戸散歩です

中山道を歩く 7回目は神田明神を出た所です


東京ガーデンパレスの植え込みに遺構を示す案内板があります

かつてここには日本医科大学の前身となる医師養成学校の済生学舎(明冶時代)があったそうです
黄熱病・梅毒の研究で有名な野口英世もここに在籍していたんです



サッカー通りと書かれた通りには(財)日本サッカー協会(JFA)や日本サッカーミュージアム、Jリーグなどサッカー関連団体が
入居しているビル、通称「JFAハウス」が向こうに見えます




本郷も

    かねやすまでは

               江戸の内




江戸の内とは一体なんでしょうか

説明板によると

享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前)は三丁目から江戸城にかけての

家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した

江戸の町並みは本郷まで瓦葺きが続き、それからの中仙(中山)道は板や萱葺きの家が

続いたそうです


江戸の範囲についてはこんな説があります

明暦の大火(明暦三年1657年)以降  江戸城曲輪内の寺院を江戸郊外(市域の最外周部)
に移転させるなど大規模な都市改造が行われました。
神社仏閣は火除け地としての役目を担います 広大な敷地を要する神社仏閣は大火のときの類焼を
防ぐ事ができます
このことにより江戸御府内への類焼を防ぐ目的があったんですね

郊外として挙げられているのは深川、浅草、駒込、目黒。この範囲が江戸御府内という考え方でしょう

府内は五里四方に拡大し深川、本所、浅草、駒込、小石川、小日向、牛込、四谷、赤坂、麻布、芝までが
江戸に入ったが古町が府内でそれ以外を府外と呼んだそうです



この図は 文政元年び作られた 「江戸朱引図」を現代に置き換えたものです(ネットよりお借りしました)

江戸時代に正式に江戸の範囲を決めたものです

朱引 この範囲を江戸としました

墨引 町奉行所が管轄する範囲 平たく言うと奉行所が出っ張れる範囲