お梅流江戸育児草子
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 最初次のページへ >>

その八 祈りを通して、先祖の命を伝えるべし

芝居は江戸時代、最高の娯楽でした。そして、子育て中のお梅にとっても最高の楽しみであります。
そう、理解ある旦那サマに子守を押しつけて、月に一度歌舞伎見物に出かけるのでござんすよ。

母となってから、いっそう涙もろくなった私。以前は何とも思わなかったような場面にも、心を動かされるようになりました。
神社の参道へ続く道、母や祖母がこどもの手を引きながら現れて、こんな風に言います。
「(参詣すれば)必ず八幡様の御加護があるほどに。」

「御加護」とは本当に美しい言葉。自分が永遠にこどもの側について、世話をするわけにはいかないのですから、育ちゆくこどもの行く末を神仏に祈ることは、親のつとめでもあったのでしょうね。

今年のお盆に里帰りした時、豆之助は世の中には「祈る」という大切なことがあることを知りました。
祖母の部屋に飾ってある私の叔母の写真、それを指さした豆之助に、祖母が「まんまんちゃんやぞ~。」と言うと、一緒に手を合わせて拝みだしたのです。

その光景はとても感動的でした。私たち大人は、こどものありのままの姿から、普段忘れて暮らしていた「祈り」を大切にすることを教えらました。

東京の自宅に帰って、せっかく覚えた「まんまんちゃん」を忘れるのはもったいないなあ、と母お梅は思い、居間に「小さな仏壇」を作ることにしました。ちょうど家にあったのです。旦那が趣味で集めた仏像が。


豆之助は頭が畳にくっつきそうなほど下げて真面目に拝み、「んあっ!」と息を吐きながら起きあがります。「感心感心!」と思っていると、二つあるミニ鎌倉大仏を並び替えて遊んでいたり・・・。

ま、長い時間をかけて、我が家の習慣にしていけたらいいな、と思っています。

私の育児のモットーの一つに、助産婦の吉田先生の「子育ては命をつなぐこと」という言葉があります。
これは私から豆之助へ、命のバトンをつなぐという意味だけではありません。
私の祖父達や叔母がどんな人だったか、どれほど私や妹をかわいがってくれたか、今豆之助に会ったらどんなに喜んでくれるかを、祈りの場で語り聞かせること。愛してくれた人の記憶を伝えることは、いい絵本を読み聞かせることと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なことだと思います。

そして昔ながらの暮らしを伝えることは、私や夫の後にいる多くのご先祖様の命をつなぐことでもあります。
江戸ってそれほど遠い時代ではないのです。三十路の私と同世代の方は、おばあちゃんのおばあちゃんは江戸の人、と言うと、意外と近く思えるのでは?

ご先祖様達がどんな風に子育てしてきたのかを知ること。そしてその子育ての知恵を現代の暮らしと折り合いをつけながら活かし、伝えていくことこそ、
「命をつなぐ子育て」と言えるのだと思います。

今私は、子育てという大切なつとめをすることができて、本当に幸せです。そしてこの今の幸せは、ご先祖様が命を伝えてくれたおかげ。
すやすやと眠っている我が子の顔を見ながら、私は祈ります。どうぞこの命をつないでいってくれますように、と。

その七 和の暮らしを伝えるべし

太平の世、江戸の人々は、四季折々の行事や祭りを思い切り楽しみながら暮らしていました。

七草がゆを食べる一月七日、ひな祭りの三月三日など、年間五回の節供の日を祭日としたのは徳川幕府。
年中行事は暮らしと本当に密接に結びついていたのですね。
また、これらの行事は楽しみでもあり、疫病などの病におびやかされていた人々にとっては、病魔や厄を払い、長寿を願う大切な儀式。
決して怠ってはならないつとめに近いものがあったのではないかと思います。

幼いこどもとの暮らしは、毎日同じ事の繰り返しで単調なもの。昔に比べて家事に手間がかからなくなっている現代、主婦の仕事にやりがいを見つけることが難しくなっているかもしれません。

しかし、季節の行事を大切にすることによって、ずいぶん暮らしに彩りを添えることができます。

私も子育ての最初の一年は本当に余裕がありませんでしたが、初誕生が過ぎてからは、少し余裕が出てきて、いろいろと行事を楽しんでおります。

といっても、豆之助はまだ一歳なので、あまり特別な事はしていません。
一歳半を過ぎた頃から歌を楽しめるようになってきたので、季節の行事が近づくと、その行事の写真や絵を見せて歌を教えるのです。
クリスマスの頃はクリスマスツリーを見るたびにジングルベルを歌っていました。すると、デパートなどでツリーを見るたびに、左右に体を大きく揺らす「歌っておくれよ。」のポーズ。店員さん達の前でも歌わなければならないので、恥ずかしい思いをしました。

あとは、行事食を家で作って、食べるくらいです。月見団子、冬至のかぼちゃと小豆の煮物、七草がゆなど。
昔はひな祭りには白酒と草餅、七夕には流しそうめんと頂く物が決まっていたようです。

家族や遊び仲間と和やかに囲むごちそうは何よりの楽しみだったことでしょうね。
私も幼い頃を思い出す時、必ずその季節、行事、祭りとともに家族や親族と囲んだ食卓が鮮やかに蘇ってきます。

節分の豆、ひな祭りの花見団子、お旅祭りの柿の葉寿司など。私の故郷加賀地方には、氷室の節句といって、七月朔日に酒饅頭を食べて、夏場の無病息災を願う風習もあります。

年中行事を大切にするということは、その土地と季節の恵みを味わうことでもあります。それは故郷の伝統を伝え、今この時を丁寧に暮らすということ
なのです。
私達親が子に伝えなければ、子も次の世代に伝えることができません。

私も母がしてくれたように季節の行事を大切に暮らしていきたいと思っています。ということは、年中行事を大切にすることは、こどもの為というよりは、孫の為になるのかもしれませんね。

心得その六「自分を磨く姿を子に見せるべし」

「習い事は六歳の六月六日から始めると上達が早い」と昔からよく言うそうです。数え年だから、今の四歳から五歳にあたります。
それまでは、母が手本となって、家庭でのしつけが行われた江戸時代。「子供諸礼しつけ方」という浮世絵を見ますと、障子の開け方、給仕の仕方、などという絵が出てきます。

こどもながらにも、美しい立ち居振る舞いや礼儀を教えるというのが、江戸のしつけだったようです。
何を習うにしても基本となる礼や忍耐力を幼いながらも身につけさせること。寺子屋や習い事の師匠に付くまでに、親が果たしておくつとめだったのでしょう。

「0~3歳は脳の発達に大事な時。このときまでに何かを始めないと天才になれない。」というような「三歳児神話」を私は信じていません。
英語も習い事も、もっと後で十分です。この時期に本当に大切にしなければいけないことは、江戸のような「しつけ」を始める準備。つまり親が折り目正しく暮らす姿を見せることです。別に難しいことではありません。早寝早起きをすること、ごちそうさま、いただきますを言うこと、笑顔で挨拶を交わすことなど。
こどもは見て、真似ることで、できるようになっていきますものね。

だから頑張らなければならないのは、むしろ親の方なのです。私はこどもが小さいうちこそ、親が自分を磨く姿を見せた方がいいと思っています。
いわゆる「三歳まで」こそ、親が習い事をする最高のチャンス!というわけで、旦那は三味線、私は踊りの稽古に励んでおります。

「あんまりうまくないけど、おとっちゃんもおっかちゃんも、いろいろがんばってるな!」と楽しそうに見えるのか、旦那が三味線を弾き出すと側を離れず、私が踊り出すと、一緒にクルクル回ってます。「ちんとんしゃん、ちんとんしゃん。」とか言いながら、扇子の取り合いしてます。あんまり稽古にはなりませんね。

いずれ豆之助自身が何かを始めた時に、こんな私たちの姿を見ていることが、自分も頑張ろうというやる気につながると信じています。
「こどもの手本となる付き人こそ、自分自身を磨く努力を怠るべからず」な~んて、自分が習い事したい言い訳だったりして。

心得その五「こそだてに助けを求めるべし」

江戸の多くの人は長屋暮らし。長屋は、夫婦にこども一人か二人という家族構成が多いので、江戸庶民は現代同様、核家族が一般的だったのかもしれません。

しかし、江戸の暮らしを考えると、母一人に育児の負担が大きい現代の子育て風景とは大きく異なるように思います。
職場と住居が近いこと、あるいは同じ場所にあることや仕事の時間が短いことから、父親も育児に積極的に関わることができました。
また、家族同然の長屋の暮らしでは、お互いにこどもを育て合う関係は当たり前だったことでしょう。

まさに子宝として、社会全体の中で大切に育てられていたこどもの様子が目に浮かびます。

子育てには産婆という強い味方もいました。江戸時代の産婆は、今の助産婦よりもっと、妊娠出産を通して大きな存在感を持っていました。
産婆が医者よりも多い謝礼を受け取っている記録もあります。
江戸時代は、妊娠五ヶ月目に帯祝いという宴を催しますが、なんと産婆が主賓に招かれます。その後の診察や出産準備、育児に至るまで産婆の意向を大切に守ったそうです。

昔ながらの、つまり日本人にふさわしい出産育児の知恵を伝えるプロ、と言う点では、今の助産婦さんも江戸の産婆と変わりません。
母乳育児のみならず、食事や暮らし全体への適切な助言を与えてくれます。

幸いなことに私も、そんな「現代の産婆さん」との貴重な出会いをたくさん重ねながら子育てしています。

最初に出会ったのは、石川県大聖寺のゆたか助産院・吉田みち代先生。明るくてパワフルな魅力に溢れ、迷いやトラブル続きだった私と息子の母乳生活を支えて頂きました。

その吉田先生と出会った時のことを私は忘れることができません。
「初めての子を完全母乳で育てるぞ!」と気負っていた私は、周囲の意見に耳を傾けることができず、反発してばかりでした。
「ミルクを足した方がいいって家族に言われるんです。本には母乳不足かなと思ったらまず、何度も母乳をあげましょうって、書いてあるのに。」
と不満ではち切れそうな顔で訴えた私。

助産婦さんなら同調してくれるに違いないと思った私に、吉田先生は言いました。
「子育てってもっとしなやかなものやと思うよ。子育ては命をつなぐためのもの。ご先祖が代々命をつないでくれたから、あなたは今この子を抱けるんやよ。」
あなたをお母さんが生まなかったら、お母さんをおばあちゃんが生まなかったら、今のあなたはいない。命をつないでくれた人たちに対して、感謝の心を忘れてはいけないよ。
力強くそして心を込めて諭すようなお話を伺い、私は自分の傲慢な心を恥ずかしく思いました。

また、母乳は子孫を残すためのものだから、飢饉などに備えて質素な食べ物でも耐えられるようにできている、というお話や、日本人の子孫を育てるには、お米が一番
ふさわしいことなど、幅広い「食」のお話を伺って、目から鱗がボロボロと落ちる思いでした。

その後、東京中野の自然育児相談所・山西みな子先生のご指導を受ける機会にも恵まれ、赤ちゃんに離乳食はいらないこと、「かみかみごはん」といって、親が塩むすびをかみ砕いて与える、すばらしい母乳育児法を知り、日々の子育てがどんどん楽しくなっていったのでした。

「日本人の赤ちゃんには日本食、と考えれば間違いはない」と助産婦の先生方にご指導頂いたおかげで、私は子育ての大本に気づくことができました。
日本人の私にとって、子育ての基本とは「立派な日本人を育てること」、このひと言に尽きます。

思えば、母乳のトラブルがなければ、助産婦さんと出会うこともなく、大切なことに気づくこともできませんでした。何度もつまったり、切れたりしたおっぱいが、
「自分一人で抱え込んだら、母として何も成長できないよ。助けを求めなさいよ。」というメッセージを送ってくれていたのかもしれません。

子育ては、社会のあととりを育てるという大切な仕事です。こどもを社会へ送り出す「付き人」に過ぎない母が、子育ての全てを一人で引き受けるには荷が重すぎます。
母子だけの生活がつらく思える時、ちょっと思い出してみてください。
「子育てには母の責任は大きい。でも、母だけの仕事ではない。」ということを。





心得その四 肌と肌の触れあいを何よりも大切にするべし

戦乱の世が終わり、天下太平が200年以上も続いた江戸時代。近代以前の日本で、最も安心して子育てを楽しめた時代だったのではないかと思います。
人心にゆとりが生まれたせいか、育児書がたくさん書かれ、子育て論が盛り上がりました。

情報過多で科学先行ぎみの現代の育児論とは違って、生命の本質や人の道理を説いたものが多く、平成の子育てにもそのまま通用するものがほとんどです。

日本で初めての育児書「小児必用養育草(しょうにひつようそだてぐさ)」には、人を木に例えて、このように書かれています。
「百尺の松も一寸の時をよくやしない得て千年の青き操をあらハし、七尺の人も壱尺の時をよくそだて得て百年の寿をたもつ事をしるべきなり」

人も木も自然の産物。この言葉は生命の真理をついていると思います。
幼いこどもは小さな苗木と一緒。私は集団生活に入る前の0~3歳の子育てが特に大切だと思っていますが、この時期にこどもにお金をかけ、ぜいたくをさせることは小さな苗木に水や肥料を与えすぎて、腐らせるのと同じこと。

丈夫な身体と心を育む基礎作りの時に、美衣美食はいらないのです。

江戸時代は今のように物が豊富ではなく、便利な育児グッズもありませんでしたが、今よりも濃密なスキンシップがふんだんにありました。
江戸式のおんぶは、丹前の中にこどもを入れて、裸の背中におぶいます。また、寒い時は懐の中に裸のこどもを入れて温めたり、夜泣きするこどもを裸にして抱いて寝かせたりしました。
肌と肌との触れあいが、体を温めて、何よりもこどもの心の安定に結びつくことを、江戸の人々はカンで知っていたのですね。

しかし、こういうスキンシップは胸を開きやすい着物だからこそ可能なことで、現代の服ではちょっと難しいですよね。なので、気軽にスキンシップをとる方法として、私はベビーマッサージやじゃれあい遊びなどがとても好きです。

また、豆之助は断乳が早かったので、時々おっぱいを見たり触ったりしたがります。そういう時は、好きなようにさせます。おっぱいをつまんで引っ張って、ウフフと笑いながらちょっと舐めると自分から「ナイナイ」と言って、服をかぶせています。

江戸時代は断乳などはさせず、乳を飲まなくなった子でも、母や祖母の乳を舐めて甘えることは当たり前だったようです。

それから、こどもの目を見て、体に触れ、優しい声で歌いかけるわらべうたは、まさに五感を使ったスキンシップ。親子の絆を深める最高の遊びだと思います。
「さよならあんこまたきなこ」と歌いながら、手のひらを合わせてもちをこねる真似をし、その手にもちを乗せたつもりで、豆之助の口元へやるとパクパク食べる真似をする遊び。手かけおんぶをして「おうまさんのおけいこ、いちにのさん」と歌いながら歩き回る遊びなどは、とても喜びます。

豆之助はお食事椅子に座るのを嫌がりましたので、食事はずーっと大人の膝の上です。二人羽織みたいで、食べさせる方は大変ですが、こんな風にちょこんと座ってこなくなる時がきたら、寂しくなるんだろうなあと思ったりします。

「やさしいスイングはママの抱っこそのもの」などといううたい文句に惹かれて購入したベビーラックも、ほとんど出番はありませんでした。抱っこかおんぶでないと寝なかったので。

というわけで、育児グッズはすべてリサイクルで処分し、新たに購入する時は「江戸時代になかったものは、現代の子育てにも必要ないのでは?」とチェックすることが習慣になりました。

こういう暮らしをしていると、こどもの物にはほとんどお金がかかりません。その分、自分の服や本を買ったり、月に一回旦那に子守を押しつけて、着物を着て、好きな歌舞伎を見に行ったりして、リフレッシュしています。

いつも一緒だからこそ、生き生きした母との触れあいは、こどもの心身の安定に何より大切。
「お金はこどもにではなく、自分の為に使おう。」が付き人お梅のモットーでござんすよ。

心得その二「こそだての基本はまことの胎教にあり」

意外に思われるかもしれませんが、江戸時代でも「胎教」はとても大切にされていました。元禄三年に出版されたお産の書「いなご草」には、「胎教」について書かれた部分があります。

「胎内にいる胎児は母親と一体であり、母親の心の状態や体調はそのまま胎児にも影響する。したがって、妊娠した母親の心が邪心なく素直ならば生まれてくる子供の心も素直であるし、母親の身のおこないが正しければ子供は行儀良く育つ。大体において、心がゆがんでおこないの悪い子供というのは、妊娠中に母親が心身ともに慎まなかったからである。だから母親たる者、妊娠とわかった日からあらゆることに慎みをもって、ほんのわずかな悪心ももたないようにし、口にする言葉やおこないも道に外れぬように心がけ、お産の時を待つ。これを胎教という。」  杉立義一著「お産の歴史」より

胎教の時からすでに子育てが始まっている、ということがよくわかるすばらしい教えだと思います。
本来の胎教とは、いい子を生みたかったらまず母が心身を慎む、という考え方だったのですね。いわゆる「お腹の子にクラシックを聞かせたり、英語で語りかけをすると、優秀な子供が生まれる。」というのが、胎教だと思っていた私は、周囲の胎教コールに猛反発しました。

「じゃあ、江戸時代の赤ちゃんはみんなバカだったの?」
ヘリクツかもしれませんけどね。○○をするといい子が生まれるというのは、お腹の子をコントロールするという傲慢な発想に思えて、ものすごくイヤだったのです。

だから、いわゆる現代的な胎教はいっさいしませんでした。
しかし、妊娠期間中を通して、次のような生活を送っていました。

1,妊娠8カ月まで、日本舞踊の稽古に通った。
2.妊娠出産に関する本を手当たり次第に読んだ。

踊りは、「フラメンコだって阿波踊りだって、昔からみんなやってたことだからねえ。」という医師の診断をいいことに、週一回目白台の師匠のお宅まで通っていました。自宅から最寄駅まで20分、目白駅から師匠宅まで20分歩いて、30分から1時間のお稽古をしました。
日本舞踊というと優雅なイメージがあるかもしれませんが、意外とハード。
この歩いてお稽古に通ったことが安産につながったと自分では思っていますが、妊娠期間中に限っても、体を動かすことは、精神的にもとても良いことでした。

お腹の中で長唄を聞いていたのかどうかはわかりませんが、豆之助は三味線や太鼓の音が大好きです。別に息子を三味線好きにしたくて踊りの稽古をしたわけでもないですが、日本の音楽に親しみを持ってくれているのはとてもうれしいことです。

本はいろいろ勉強しなくちゃ、という義務感ではなく、ただ楽しみで読んでいました。ちょうど、旅行に行く前に、その行き先のガイドブックをワクワクしながら開く感じと似ています。
今思えば「赤ちゃんが生まれたらいっぱい抱っこして、いっぱいおっぱいをあげよう。」なんて、いいイメージトレーニングにもなったのかもしれませんね。

このように妊娠中は、好きなことばっかりしていたので、心身が安定していました。また家族や周囲にとても大切にされたので、いつも楽しく朗らかに生活できました。

心身の安定という本来の胎教の基本条件は満たされていたわけです。
まあ、身を慎み、邪心を持たなかったかどうかは別として、私のお気楽妊婦生活も、しっかり「江戸の胎教」をしていたことになるのかもしれませんね。

そして今もその胎教の基本は、私の暮らしの中で続いています。
豆之助の昼寝の間に、HPの「お江戸育児日記」を書いたり、歌舞伎の研究をしたり、踊りのお稽古をしたり、好きなことに一生懸命打ち込みます。

私はこどもの遊んでいる傍らでよく本も読みます。こどもを読書好きにするには、絵本の読み聞かせよりもまず、こどもの前で読書の習慣を見せることが大切だと思っているからです。ま、ほとんど集中はできませんけどね。

でもそのかいあってか、豆之助は本にとても興味を示していて、絵本よりも大人の本を好んで触りたがります。私の姿を通して、本はとても面白いものだ、ということを理解しているのでしょう。

本を読んでお勉強のできる子に、とは思いません。つらい時も楽しい時も、本は人生を導いてくれる友だと思います。よい本とすばらしい出会いを重ねていってほしいものです。
母の暮らしぶりを毎日目にするこどもは、その母の暮らすようにしか暮らせないのではないかと思います。そして、一日のほとんどを二人きりで過ごす母ならなおのこと、真剣に日々の暮らしを楽しむ工夫をしなければいけないと感じます。

もし母がわが子をいい子にしようという理由で、クラシックを一生懸命聞いて、それで楽しいのなら、それはいいのです。問題なのは、こどもにいいから、胎教をしないといけないから、という理由で、好きでもない音楽を努力して聞くような胎教です。

私がそんなことをしたら、「おまえのために一生懸命聞いたんだよ。」とこどもに恩を着せてしまいそうです。それよりも「母も好きなことを一生懸命やるから、お前も好きなことを精一杯やるんだよ。」という気持ちで、人生を楽しむ姿をたくさん見せてあげたいもの。

こどもは親の姿を通して、生活を満たし、楽しむ術を知っていきます。
自分は何をして生きていきたいのか。こども自身でその答えを見つけられるように、見守る付き人の最初の仕事がまことの胎教なのです。


 

家事を遊びに取り入れ、親の手助けをさせるべし

江戸の8割の人は長屋暮らし。で、その長屋の台所というのは、一間きりの畳の部屋のすぐ横にかまどと流し場があるというスタイル。つまり座ったままで煮炊きをしていたというわけですね。
ちょっとイメージがわかないという方は、囲炉裏や七輪を思い出してみてください。座って汁を煮たり、魚を焼いたりしますよね。
そう、江戸時代までは、台所仕事は床に座って行うのが一般的だったのです。昭和に入ってからも、長屋や茅葺き屋根の家はあったわけですから、座って食事を作るということは、ある年代以上の方にとっては、それほど不思議なことではないような気もします。
実際にお梅が小学生くらいの頃でも、ごまみそ作りや、柿の葉寿司、粕漬け、カキモチ作りなどは全て座って作業していましたし。

江戸のお台所を知ってからというもの、豆之助が調理中に抱っこをせがんだり、ぐずったりした時、座って調理できる台所ならどんなにラクだろうと思うようになりました。
そこで、お梅のお台所にちゃぶ台を置くことにしました。ここで座ったままおにぎりを握ったり、鍋に材料を入れたりという簡単な作業ができます。
野崎村のお光ではないですけど、大根を刻んだりもします。包丁を持っている間は、細心の注意を払いますが、「アチチよ、イタタよ。」と言い聞かせれば、「ア、チ、チ。」と言いながら、
離れて見ているだけで、触ろうとはしません。

こどもの機嫌のいい時間帯に、調理することも心がけます。
朝ご飯やおやつの後、おなかがいっぱいの時に、片づけのついでにちょっと下ごしらえをしておきます。

ちゃぶ台での調理を興味津々で眺め、塩をつまんでなめて「カラッ!」という顔をしたりする豆之助を見るのは、とても楽しいものです。鍋や皿を出して並べる私の真似をしたり、
100円カゴに片栗粉とか冷凍庫のお餅とかを入れて、買い物ごっこをしたりと遊んでくれるので助かります。

と言いたいところですが、そこらじゅうにタッパをばらまいたり、やかんに入っている水をまき散らしたり、「あ~もう!」と言いたくなることもたくさんあります。
でもね、こどもって、大人の真似が大好き。大人のすることを真似てできるようになるには、まず見ることから。見て、真似て、だんだんうまくできるようになるためにも、こどもを台所と家事から閉め出さないようにしたい
ものです。

というわけで「出産準備品リストには、ベビーゲートではなく、ちゃぶ台を!」というのが、江戸育児ママお梅の提案です。
もう少ししたら、このちゃぶ台で一緒にお料理できるようになるかもしれません。

現在一歳と八ヶ月の豆之助が、その他に自分からしてくれるお手伝いは、「ゴミや使用済みのオムツを捨てる。」「干す時やとりこむ時の洗濯物の受け渡し。」「畳に茶殻をまいて、豆ぼうきで掃く。」
こんなところでしょうか。もちろん、ゴミ以外のものも捨てられたり、洗濯物を渡す時早すぎてベランダに落としたり、茶殻をほうきでまき散らして一層散らかしたり、とうまくいかないことばかりです。
でも、まだ小さいからと言って、家事のじゃまになるから、とこどもを遠ざけたり、「家事は後回しで、こどもの遊び相手をしなくては。」と遊びを優先しようとすると、こどもがなかなか家事に馴染みません。

歌麿や国貞などの浮世絵には母と子の姿がよく描かれています。縫い物をしていたり、桃の皮をむいていたりと家事をしている母の膝元には必ず幼子が甘えかかっています。現代では、針や包丁が危ないと言って、非難されそうですよね。

しかし、椅子やテーブルのない昔の生活は、座ってする家事がほとんどですし、電気製品もないので、家事には膨大な手間がかかりました。こどもを傍らで遊ばせながらの家事は当たり前の風景だったことでしょう。

見て、真似て、だんだんできるようになるためにも、手間はかかりますが、こどもとの家事の時間を大切にしていきたいものです。
その際、私が気をつけているのは失敗してもあまり騒がないこと、またうまくできてもあまり褒めすぎないことです。
親なら誰もが、こどもには将来世の中の役に立つ人間になってほしいと願っていることでしょう。家の手伝いをするということは、その練習をしているようなもの。褒められるから何かをするのではなく、役に立つ人間になることは当たり前のことなのです

だから、家事を手伝って、親の役に立つことは当然であるという気持を自然に身につけていって欲しいのです。大事な「あととり」だからこそ、厳しく仕込んであげたいところですね。


心得その一「できるだけ早く独り立ちさせるべし」

成人の年齢が今よりずっと低かった江戸時代、男の子は一二、三歳から親元を離れて丁稚奉公に出ました。女の子は二十歳も過ぎれば、もう年増と呼ばれますから、いつ嫁にやってもよいように、親は必死で家事・裁縫を仕込みました。

また、医学の発達していない時代に、親の方もいつ何があるかわかりませんから、こどものひとりだちにかける思いは今よりもっと切実だったことでしょうね。

また、昔は姉が早死したため、妹が姉の夫の後添えになって、家を継ぎ、こどもを育てたなんていうのはよくある話。

こどもが生まれる前は信じられない話だと思っていました。しかし、家の暮らしとこどもを守る智慧の一つでもあったのだと、自分の体験から実感する出来事があったのです。

出産後里帰りしていた間、私は石川県の実家で家族や親族に囲まれて、楽しく子育てしていました。さて、二ヶ月後に東京の自宅に戻ってみると、待っていたのは、深夜帰宅の夫を待つ母子二人きりの静かすぎる生活でした。

こどもはかわいくてたまりませんでしたが、豆之助が、泣いた、笑ったといっては、ともに成長を見守る家族が側にいないことが淋しくてたまらず、ウツウツとした日々を過ごしていた私。自分の体の不調に気づいたのはこんな時でした。

それはなんと、1ヶ月あまりも続いていた下血。

夜泣きや順調とはいえない母乳育児に追われ、自分の体の事は後回しになっていた私も、さすがにこれはおかしいと家族に相談し、すぐに病院へ行きました。

「大したことではないですよ。」

という医師の診断を期待していたのに、結果は要検査。しかも大腸ガンの疑いあり・・・。

まだ半年にも満たない豆之助の行く末と家族のことを思うと、まさに地の底に突き落とされたような気分でした。

「豆之助の小学校の入学式は見られるのかな?それとも歩く姿も見られないのかな?」
検査の結果が出るまでの間は、もう最悪のことしか考えられず、豆之助を抱っこして、泣いてばかりの日々。

そんな時に一番気がかりだったのは、私が亡き後の豆之助のことでした。
豆之助がおっぱいを欲しがって泣いても、抱っこして欲しくてぐずっていても、どうすることもできません。

その上、我が子を継母に添わせることになるのかと思うと、身を引き裂かれるようなつらさでした。(もちろん、継母でも立派に子育てしている方もいますが。)姉の残した子を妹が育てるという昔の人の話が、急に現実味を帯びて感じられました。

幸いなことに結局、検査の結果は異常なしでした。それに、妹に私のこどもを託すことは実際には難しい話です。だからこそ、母の私が、こどもがひとりだちするまで、側に寄り添って、健在でいることは、母としての最低限の務めであることを痛感しました。

そして、この出来事は自分自身の人生を見つめ直すいいきっかけにもなりました。
「どんなに子供が愛おしくても、いつかは別れる日がくる。形あるものはいつかは壊れるし、あの世へ持っていくことはできない。だから、家族や友人を大切にし、いい思い出をたくさん作って、今を大切に生き生きと過ごしたい。そして、行きたいところやしたいことは、子供がいるからと言い訳せずに、努力と工夫で挑戦しよう。」

当たり前だと思っていたこどもとの時間が失われることもあると気づいたとき、母親としてのつとめを、精一杯果たそうと心に決めました。

いつまでも私が傍にいて付き人してやるわけにもいきません。ただかわいがるだけではなくて、早く自立できるように、自分で人生を切り開いていける人間に育つように支えてやること。それこそが母という付き人の最大の使命なのです。

私が江戸育児に出会うまで 2

そしてその想いを形にしはじめたのは、ようやく結婚してからのこと。長い間念願だった日本舞踊を習い始め、再び歌舞伎を熱心に見始めました。
20代後半、遅まきながら始めた踊り修業が、さあこれからという時に妊娠。
ああ、これで自分のしたいことができなくなる、と母になることを少し疎ましく感じてしまったことも事実です。

こんな頼りない私にきちんとこどもの世話やしつけができるのかと、親になる不安を抱きつつ、二〇〇三年四月に、長男・豆之助が誕生しました。

子育てという新しい人生の舞台が幕を開けたのです。
こどもとの生活を通して、母親の仕事とは、次代の「あとつぎ」であるこどもの心身を丈夫に育み、危険な目に合わないよう傍らで見守り、無事に世の中へ送り出すという付き人業に過ぎないんだなあ、と思うようになりました。
私の好きな芝居に例えるなら、豆之助の役は「お世継ぎの若君」で、お梅は「乳母兼付き人」といったところでしょうか。
それはまた、想像していたものとは違って、とても楽しくやりがいのあるつとめでもあったのです。

しかし、父親は仕事でほとんど不在、祖父母も近くにいない核家族の母子二人きりの生活は、煮詰まったり、イライラしたりすることもよくあります。育児の責任を重大に考えすぎて、迷い悩むこともしばしばです。

最近は、子育ての難しさ、大変さばかりが注目されがちですが、本来子育てはこどもとの暮らしという生活の一部分に過ぎないはずですよね。そう考えたとき、もっと心から今の暮らしを楽しみたい、と思うようになりました。

芝居や浮世絵に出てくる江戸の人々は、花鳥風月を愛で、日本の四季と文化を楽しみながら、身の丈に合った日々の暮らしを精一杯楽しんでいました。

歌舞伎を通して知った日本の美しさを、「この国のあとつぎ」である子供達に伝え、ともに暮らしを楽しんでいきたい。私が江戸時代の子育てに興味を抱くようになったのは、そんな思いがきっかけだったのかもしれません。

江戸の子育てを知ることは、江戸の暮らしを知ることでもあります。
日本人にふさわしい暮らしは、日本人を育てる上で、とても心地よいということを、江戸の子育てを通して教えられている毎日です。

この本には、そんな今すぐできる私流の江戸子育てとお梅の付き人としての心得をまとめてみました。

踊り子役者豆之助と付き人お梅の「江戸育児」の段、駆け出し者のことなれば、お見苦しきところは、どうぞお許し下さいまするよう。
そのため、口上。とざい東西~。




私が江戸育児に出会うまで

皆様、お久しぶりでござんす。「江戸育児」ママのお梅と申しまする。

私が生まれ育ったのは、石川県小松市。歌舞伎「勧進帳」で有名な、安宅の関がある所です。
この小松には、豪華絢爛な曳山の上で子供歌舞伎が上演される「お旅祭り」という祭りがあります。

幼い頃から、私はこの曳山子供歌舞伎が大好きでした。祭りの間、何度も見に行くので、台詞を覚えてしまい、よく妹と「絵本太閤記十段目」ごっこをして遊んだものです。

この子供歌舞伎には曳山のある町の子供しか出られません。私達の住む町には曳山がなかったので、同じ小学校から芝居に出ているこども達が、うらやましくてたまりませんでした。

21世紀歌舞伎組の市川笑三郎丈は、ある番組で「古典の魅力は?」と問われ、「私はこういうもの(義太夫や長唄)が生理的に大好きでして。」と答えていましたが、私も同感。

歌舞伎独特の節回しの台詞、義太夫の三味線の音、芝居の始まりを告げる拍子木の音などを聞くと、もういてもたってもいられません。日本人の血が騒ぐ、といったところでしょうか。

また、母が着付師だったせいもあって、綺麗な着物や日本髪も大好きでした。

芝居と着物を通して、昔の美しいものへの、愛着と憧れを育みながら少女時代を過ごし、本格的に歌舞伎に興味を持ちだしたのは、高校生の頃。地方の高校生には、雑誌で歌舞伎情報をチェックし、舞台中継をテレビで見るのが関の山でしたけどね。夢のように美しい芝居の世界のとりこになりました。

そのまま歌舞伎の勉強などに進めばよかったのですが、何故か大学時代からフランス語やバレエを始めてしまいました。いわゆる「自分探し」というものがしたかったのかもしれません。
結局どちらもモノにはなりませんでしたけど、その間旅行や語学修得、仕事を通して、多くの欧米人と出会いました。

彼らは皆、自分の国についてよく知り、語り、誇りを持っていました。自分の国の音楽を演奏し、踊りを踊り、その国の食べ物を作って食べます。

その時私は、乏しい会話力より何よりも、日本人として語り、披露するべきものを何も持っていないことに、恥ずかしさと悔しさを覚えました。

自信を持って「私は日本人です。」と言えるようになりたい。そんな思いが密かに芽生えたのは、この頃だったのかもしれません。
1 | 2 | 3 | 4 | 最初次のページへ >>