鳥羽街道(羅城門→淀) | Eddie's Diary

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旧街道を歩く旅、ダイビング(休止中)、山登り、ムスメや日々の出来事
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大阪人ですがあちらこちらへ出没します~。

<2024年4月27日>

2024年のGWがやってきました。

怪しい天気ではありましたがGW初日から早速街道歩きへ行ってきました。

今回は近場の1回で完結する短距離の旧街道鳥羽街道です。

平安京の朱雀大路の南端の羅城門から南へ伸びる古道で、平安京を造営する際に物資を運搬するために作られた鳥羽作道が元になった街道です。

戦乱や川の氾濫などで平安時代のルートとは異なる箇所もあるのかもしれませんが、明治時代のルートがほぼ残っているようなので歩いてきました。

 

小雨が降る中を昼前に自宅を出発、南海・地下鉄・京阪・近鉄と乗り継いで京都入り。

東寺駅で下車して九条通りを東へ歩き東寺の前を通過し・・・・

 

やってきたのは京都市南区にある羅城門

九条通から少し北へ上がった児童公園に跡碑が立っています。

 

九条通に戻ると通りに面した矢取地蔵尊の前に道標が立っています。

「左 八幡宮 やわた 往来安全」 「右ハ やなぎ谷 観世音菩薩」

 

矢鳥地蔵尊を背にし、鳥羽街道(赤矢印)を13時40分にスタートしました。

鳥羽街道は基本的に千本通を歩くことになります。

右(西)を指すオレンジ矢印を入れましたが、これは13年前に出発した西国街道です。

 

スタートしてすぐに街道沿いの郵便局をチェック、その名は京都羅城門郵便局!

 

街道とは言っても、また京都とは言っても、どこでも古風な趣きがある訳ではなく且つ平安京の外でもある訳で、普通の住宅街がずっと続いていきます。

 

千本通に立つ常夜燈は西にある吉祥院天満宮参拝のためのものです。

 

十条通あたりまで下がってくると虫籠窓のある京町家を見かけるようになりました。

 

久世橋通を越えひたすら南へ進んで行きます。

 

先だっての奥州街道をはじめ各街道どこでも古い建物が大なり小なり見かけますが、地方や田舎の方では高齢化や人口減などで放置されて荒れてしまってるのに対し、京都にある町家や商家の建物はどれもきれいに手入れがされて現役で使われているのを今回実感しました。

 

この辺りは鳥羽街道の「鳥羽」がついた学校名・地名になっています。

昔の上鳥羽村のエリアです。

 

ここでは緩やかにS字状にカーブを描いていきます。

 

恋塚浄禅寺という寺ですが、またこの後「恋塚」が出てきます。

 

紅殻塗りを見るとやはり京都やなぁ~と感じられます(近江もそうですが)。

 

昔の上鳥羽村を出て旧道の気配がなくなりました。

 

名神高速道路の高架をくぐっていきます。

どうみても街道のルートとは異なってるように見えますが、明治期の地図では高架下あたりまでは同じでその先が若干ずれてる程度でほぼ昔の街道筋です。

 

高速の向こう側で鴨川を渡ると南区から伏見区に入ります。

遠くに見えるは京セラの本社ビルです。

 

鴨川を渡って土手を下り赤矢印のところで川べりから離れます。

1998年までは赤矢印の所に小枝橋がかかっていましたが、撤去され北側(上流側)に上の写真の新しい小枝橋にかけ替えられました。

 

旧小枝橋のあったところから最初の角で南へ下りていきます。

写真を撮った所に安政6年の道標でこれはレプリカです。

「城南離宮 右 やハた よど」 「左リ 京みち」、なぜか「リ」が付属してます。

南へ曲がらずに小枝橋から東へ直進すると道標にある城南宮に至ります(=参道ですね)。

 

そしてその横にあった案内板。

幕末の鳥羽伏見の戦いはここから始まりました。

 

先程の道標からファミマあたりの左側が鳥羽離宮跡(写真撮り忘れました><)。

白河上皇や鳥羽上皇が院政を行った場所でもあるとか。

二人は熊野に何度も足を運んでますが鳥羽離宮から出発したんでしょうね。

 

街道の左手は一段低くなってます。

川の土手が街道とされていたのかと思うのですがどうでしょうか。

 

かつての下鳥羽村の域内に入るとまた京町家をちらほら見かけるようになります。

 

上鳥羽に恋塚浄禅寺がありましたが、下鳥羽には恋塚寺。

二つの寺は何か関係があるのかどうか、ライバルなのか親戚なのか友達なのか....。

ちょっと小洒落た名の寺なので気になってしまいました。

 

杉玉がぶら下がる虫籠窓の建物は酒の醸造元。

月桂冠と名前が似てますが全く別会社のようです。

 

鴨川の河原にベンチとして使うには不格好な大きな石が3つ。

説明板が草に覆われて見にくいですが、大地震で被災した二条城の修復のために運搬された石が

何らかの原因で落とされて近年まで沈んでいたそうです。

川を見ながらちょっと休憩するにはちょうどいいかもしれません。

 

京都の街の中心部で鴨川は何度も見てますがこんな下流で眺めるのは初めてです。

 

歩道兼自転車道があって川面が見えません。

下を歩いて失敗やったな、と思ったのですが・・・・、

 

民家の壁の足元に鳥羽伏見の戦跡の碑。

土手の歩道を歩いてたら気付かなかったと思います。

ただ碑だけで説明板などがなかったのはちょっと残念。

 

信号から川から少し距離を取って街道が進みます。

 

町屋を利用したカフェ。

歩いて通過何十秒かの間に2組のお客が入っていきました。

 

この辺りは昔の横大路村、また家並みがしばらく続きます。

 

道幅が1.5車線くらいの鳥羽街道、意外と交通量が多くて歩く際は車の動きに要注意です。

旧京阪国道の渋滞迂回路として使う車が多いのかもしれません。

 

横大路村を出ると再び緑の風景。

 

土手に上がってみると水面が全く見えません。

川向こうはたぶん天王山。

だいぶ下流まで来たのが分かります。

 

旧納所村まで来ると鳥羽街道のゴールはもうすぐ。

 

昔々に白河法皇が「賀茂川の流れは意のままにならぬ」と言いましたが、鴨川と桂川が合流したこの辺りは今も洪水リスクを抱えている地域のようです。

 

けっこう古そうな五番ノ橋を渡った先に・・・・

 

史跡碑と説明板。

京と大坂をつなぐ水運の中継地であった所だそうです。

川の流れも変わり水運は廃れて人通りもなく寂しくなってしまってます。

 

案内板の先、納所の交差点で旧京阪国道を渡るのですが、元々の街道ルートはこの手前の細い道を左へ入るのが正しかった可能性があることに帰ってから気付きました。

少し悔やまれますがまぁ仕方ないですね。

 

そしてその正しいであろうという鳥羽街道のルートは中華屋の前でゴールとなります。

また東海道から伏見経由で来る京街道(青矢印)もここに到達し、淀駅方向へ向かいさらに大坂へと続いて行きます。

 

以上を持って鳥羽街道約10kmの旅が踏破と相成りました。

最後のゴール直前のルート違いが残念ですが、京街道を後々もう一度歩くつもりなのでその際に再確認をすることにいたします(何年か先になりますが・・・・)。

 

帰宅はゴールから徒歩1分弱の京阪電車淀駅から。

前の週の奥州街道沿いで見た福島競馬場の5倍ほど(ホンマか?)大きい京都競馬場が駅のホームから望めます。

かつて賑わった納所の町から、今は京都競馬場に人の流れが移ったということですね。

翌日28日は天皇賞、たぶんごった返すほどになったのかも~馬