この言葉、いったい誰のためのものか? おそらくは大学審議会のようなところでの誰かの発言だったのだろうが、いまだに新聞がこの言葉を枕に記事を書いていることがある。噴飯ものである。
大学経営側に向けた言葉だったのか?
全部入りラーメンか。当初から失礼な言葉だと思っていた。
誰に対してって、高校生、受験生に対してに決まっている。
たとえ話としてだが、日本の映画館の席が仮に、人口全体1億数千万の席を作ったとしよう。赤ん坊も座れる勘定になるが、まあいい。どうでもいいことのためのたとえだ。
で? 均等に全員が映画館の席に座るだろうか? 座るわけがない。相変わらず閑古鳥が鳴く小屋と、行列のできる小屋とが出現する。なぜか。言うまでもない、出かけて行ってお金払って観たいと思う映画がそこにかかっていなければ、席があるから座っていこうなどという暇人はいないのだ。
そしてこれは「機会均等」のインフラではあるが、それだけでは機能しない。とりわけ大学に入学するというのは、多かれ少なかれ狭き門だ。出口が狭い欧米流にしたって同じことだ。そのへんをはき違えている。
自分の能力を試してみたい、というのは人として健全な意欲である。
だがこの意欲は均等には生じない。そして「全入」は、この人としての健全な意欲をまったく度外視した、頭数勘定以外の何者でもない。
18歳人口の減少という視点から出てきたのに違いないのだが、土台たしか多かったときで60万人強。大学に進学しようとする高校生は。
何か、大きなはき違えしてないか。「大学進学率」が民度測る大きな物差しとでも思ってないか。大学とは名ばかりの粗製乱造を、そうとははっきり言いにくかったのだろう。「大学淘汰の時代」とセットにすればなんとかなるか。だが、そんなことは受験生の知ったこっちゃない。自分がそこで何かやってみたいと思う大学を目指すだけだ。どこでもいい大学と名のつくとこにすべりこめばそれでいいと思ってるのは、ほんの数%だろう。いたとして。
事実、早稲田、慶應、関学、同志社あたりが、昨年よりも志願者数を増やしている。同志社が4万人超、早稲田は12万人を超えた。
志願者数など増減する。志願者数もほとんどお呼びじゃない。例年のデータはあるにしても、志願者数が多そうだからやめよう、少ないから狙おうなんて受験生はいない。増減は結果に過ぎない。
一昨年あたりから連続で増えている。上にあげたような大学で。
ひょっとして頑張ろうと思ったのかも知れない。「全入」というヘタレな言葉に抗して。それなら実に幸いなことだが。
入試方式の多様化で複数日程など併願の機会も増えて、「延べ」で見なければ正確なところは分からないにしても、「大学に行く意味をもっと考える」ことができるような流行語?にしてほしいものだ。どうせ作るんなら。
ついでに新聞や報道メディアには、薄っぺらな「平等」観や、「競争」を悪であるかのようにみなす、腐れ民主主義なムードをとっとと払拭して、寝ぼけた流行語なんぞによっかからず、現実をちゃんととらまえたことを報道してほしいものだ。
自分は東大には魅力を感じないほうだが、ここのアドミッションポリシーというか、教養学部を捨てないカリキュラムの設計思想においては、やはり見上げたところのある大学だと思う。
後期日程を廃止する動きが進むなかで、東大は来年も後期をやるらしい。
ただし方式ががらりと変わるようだが。医者志望の多い理IIIは前期のみというのも筋が通っている。
1999年?だったか、自然、人文、社会の3分野から一ずつは履修すべしという一般教養の牙城が崩れてから、この国はますますつまらなくなって行き始めた。ここはちょっときちんと調べて言うべきところなので、また後日。
こういうことにくらべれば、「全入」など、話題にするのもちゃんちゃらおかしいのである。それをいまだに半端に持ち出すメディアが多いので、一言言っておかないと腹の虫がおさまらない。また、このだらしのない言葉の真意を暴いておくのは必要だろうから、その助走だ。