それは、悲しいことではあるが、不快ではない。決して。


それは歴史的に選択されて来た人間史の厳然たる一側面の現存なので。


坂東眞砂子という女流が日経新聞に書いた、その「子猫殺し」は、「間引き」である。 「殺し」とは言わない。


「殺し」という言葉を使うことを、間引いた当人なら、憚るだろう。本当に猫を飼っている人物であるなら。その実感から書き起こした随筆であるなら。


しかし、それを筆者自身が「殺している」と書いた。すでにしてセンセーショナリズム的意図を感じさせる。

続く内容は「殺し」という最大級の重みを持つ言葉が枕なわりには軽い。
概念的というか、思いつきに近い、図式による作文に過ぎない。


いつぞや物議をかもした、2ちゃんの子猫殺し現場写真さらしあげは実に不快だったが、その記憶を敢えて誘導するような書きぶりになっていないか。本人が事実、3匹の子猫を殺していたとしても(ついでに犬も)、虐殺ではない。快楽の餌食にしたわけではないだろう。しかし、あたかもそうであるかのような「殺し」という言葉を使う小細工が不快なのだ!


この不快さは、高知新聞がとりあげた女流のコメントに極まっている。


「坂東さんは高知新聞の取材に対して、
私は、子猫を殺しているだけではない。鶏も殺して食べてもいる。ムカデも、蟻も蚊も殺している。生きる、という行為の中に、殺しは含まれています。それは、高知に自然の中に生きている人たちにとっては自明の理ではあるでしょうが、
都会生活の中では、殺し、という面は巧妙に隠されています。今回のエッセーは、生と死、人にとって、さらには獣にとって生とは何か、と言う一連の思考の中から出てきたものです」とコメント。」


仮に日経に書いた物と切り離して読むのであれば、その限りは理解できくなくもない内容だ。闇が抹殺され、死が隠蔽されていく現代への警鐘と読めなくもない。それはわかる(但し「殺し」は都会で隠蔽されてはいない。この作家は、信じられないことだが、「殺し」の概念がわかっていない。あるいは意図的に濫用している)。


しかし、だからこそ「子猫殺し」のあの記事への反響に対するコメントとして、上の弁は最低最悪である。「思考」? 

思考などと呼べたしろものではない! 


土台、食用に飼われる、つまり人が食うために、そのために、「殺される」ために飼育される鶏ないし豚などの動物と、愛玩用に生まれて来た限りは、命あるまで飼い続けるのが歴史的にそうであった猫との(だからこそ同時に「間引き」も現存したし、現存するのだ)、身も蓋もない一般化、糞味噌をやらかして、ご高説を垂れたような気になっているらしいこの女流の思考力を疑わざるを得ない。せいぜいが野狐禅かなにかの偽坊主の紋切り型の借り物以下である。人は食用と愛玩用を選択してきた。それも歴史である。歴史は悲しい現実を含んでいる。しかし決して不快ではない。


不快なのはこの女流の、この屁理屈である。


「殺す」ということばが好きなのはホラー作家だからまあ許すとしようか。然り、われわれは鯉を生簀から取り上げて「殺して」食っている。事実だ。認めよう。しかしそれは「料理して食う」と言う。殺すとは言わないそれともあなたの御国である高知では、腹が減った、魚でも殺して食うか、というのが習俗であり食文化であるのか? 魚は獣ではない? あなたのおめでたい観念連鎖に乗じて言うなら蟻も蛾も獣ではあるまいに。


無神経な言葉の誤用と(それも半意図的らしい)、身も蓋もない一般化で、読者をたぶらかすのはよしたほうがいい。

それは小説作品のなかでやるがいい。


身も蓋もない一般化は疲れる。それを公器新聞を使ってやられた日にはもっと疲弊する。過剰反応も出現する。おめでたい博愛や、動物愛護の単細胞を刺激する。そこに喧嘩を売ったつもりなら、喧嘩上等。もっとましな完膚なきまでの攻撃を完遂してほしいものだ。そして静寂を見舞ってほしいものだ。できるものなら。


繰り返すが、もともと食用として繁殖させ、食われる鶏や豚、つまり「殺されてる」ことになるわけだが、そういう

人が食うためにする動物の殺生と、猫を殺すことをいっしょくたにしてどうする?

 
人の子殺し? それも糞味噌な話になる。


人が食うために生き物を「狩る」(つまりこの女史の用語では「殺す」)ことと、どうにでもしようのある単にご都合で「殺す」 ことと、いったいどんな「思考」を行えば混同できるのか? 小学生、いや園児だってわかるだろう。 「そこまでして飼うなよ、はじめから」。

これがまっとうな「思考」というものだ。


いや、やむにやまれぬ事情で間引かざるを得ないことはあるだろう。しかし、あったとしても、それを、ああいう屁理屈エッセイにできるというのは、一体どういう「思考」か? 


食うに喰えない寒村に暮らしているわけではあるまいに。都会生活を死を隠蔽する贅というなら、あなたのタヒチ暮らしは、生き物を思考実験の実験動物にできるほどのとんでもない贅を許す環境なのか。そう言われても仕方のない自身の理屈の陥穽に、この女流はまったく気づかないでいるのである。


糞味噌にしてはならないのである。今日も何かを食い、生きているのである限り!

(それをたとえ筆がすべったとしても、すべらせることができるのは、

「植物も生き物だった!」 と叫んで菜食主義さえ捨てようとした某ヒッピーだけだ。彼は殺すことを否定したあげくに生きることも否定しようとしたのだ)。


猫は愛玩動物として人が改良して作った生き物だ。それは歴史である。そういう歴史は否定したいから、私はペットなど飼うことなどしないという人物ならまだしも。3匹も5匹も(犬も加えれば)のうのうとペットにしながら、何をか言わんや。


さらには、獣一般と猫を糞味噌にしないでほしい。

野生の猫なぞ存在しない。屋内、せいぜい庭で飼われるのがすでに「自然」だ。野生のエルザなど連想してはいけない。神話時代ではないのだから。同時に、人自身が人に対して歴史的に事実行なってきた「間引き」、いまも行われているかも知れないそれと混同するのも止しにしたい。というか、この作家はどうもそのへんを混同させようとしているきらいがある。生命の尊厳? そんなものを持ち出すような話でもない。
そんなものをよりによって日経新聞コラムなんぞにお気軽に掲載するというのが大愚行なのであって。そういうコラムごときで論じるべき問題じゃないのである。そもそも。


早産した母猫のほとんどネズミの子状態の子猫を生後数時間後に埋めたことがあった。母猫はまだ若く、なんか嘗めたりしてはいたけど、彼女にだってどうにもできない。乳吸いにくる元気もないのだから。母猫は生んだ子猫を喰らうことがあると聞いたことがあって、怖くなったのもあって取り上げて埋めた。捨てる? 未熟児でもそれはできなかった。段ボールに入れて張り紙つけて外に出して逃げるという意味の捨て子なら出来たかもだが、それ以前の未熟児だ。それでもゴミ箱に捨てるようなことはできなかった。それとも何か、そのタヒチにある崖の下は、象の墓場のようなそういうとこなのか? 高知の川? 

だから、余計に、脚色付きの創作とも随筆ノンフィクションともつかぬ駄作としか思えないのだ。


それが腹立たしい。編集の責任も大きい。動物愛護だなんだ、関係ない。

ただ未熟児を母猫から取り上げて埋めたときの気持ちが蘇って、「それはないだろう」と言いたいまでのこと。

「作家としての」落とし前をつけてもらうことを祈るばかりだ。


今度は「子猫を殺して食べました 」という話を、小説作品ではなく、エッセイとして書かれてはいかがなものか?


出来損ないの「思考」を完成させる唯一の道ではないかと愚考する。