マルキ・ド・サドとスタンダールを併せ読みすることにした。
サド侯爵のは言うまでもない『悪徳の栄え』、スタンダールのは『恋愛論』。まったく意識していなかったが、二人はほぼ同時代。悪徳が1797年ころから、恋愛が1819年ころから書き始められていた。恋愛が書かれたのは、ちょうどサド侯爵の死後5年のこと。フランス革命のお陰で、ヴァスティーユ監獄から解放されてから書かれているから、サド侯爵もかろうじてモダンである。乱行はそれ以前から実行なされているので、そのへんはなんとも言えないが、書き物はぎりぎりモダーンの作物だ。スタンダールの恋愛には、ジュスチーヌつまり悪徳の初作にあたるサド侯爵の本が引用されている。
Don't believe in modern love.なloveの最初にしてそしておそらく不動の書き物がこの二つであると踏んだのだ。
読まなくてもわかっている二人の共通点がある。
それはノーマルにせよアブノーマルにせよ(どっちもloveだよ)、両者、恋愛の現場を踏んで書かれたということ。
致してから書かれたのだ。あるいは致しながら書かれたのだ。致すために現場以前に何か書かれたものを読んで臨むなんてことはこのころ、このころ以前にはまだない。ないからできない。江戸に近松の心中物はあるが、あれは噂話そのものでありゴシップであり、それはそのまま致し候の世界であって「論」ではなかった。仏心が織り込まれてはいるにしても。
やってから書かれた。やりながら書かれた。これは実に重要な後先なのである。
彼らには現場を「読み書き」するしかなかった。
「書き書き性」、「読書性」というか、「観賞性」「見る見る性」というか、あとはそういうものの怒濤の連鎖だ。今日に至るまで。
それが雪崩打って開始されたのが、この二人であると。
実はこれにキングのHEARTS IN ATLANTISをさらに重ねたいのだが、このトリプルプレイの見当はまだついていない。しかし確かなアタリがあるのだ。
ま、はずれてたってかまわん。
なんにせよ、淑女及びツンデレねえちゃんたちにはお呼びでない、男の戯言なのだから。