西周の『百学連環』に「術にまた二つの区別あり。mechanical art and liberal art。原語に従うときはすなわち器械の術、又上品の術という意なれど、今かくのごとく訳するも適当ならざるべし。故に技術、芸術と訳して可なるべし」という記述がある。
これは実に実に大切な「翻訳」作業の逸話である(なお「百学連環」自体、Encyclopedia の訳語である)


「可なるべし」、ま、これで良しとしておこう、と言うニュアンスだが、これが完全に日本語として定着して今日に至っている。


技術も芸術もどちらもartという含意を西周は「術」に込めたはずだが、それを読み取ろうとする現代の日本人は少ない。


柳父章著 『翻訳語成立事情 』には、こうした事例がたくさん載っていそうな気がする。


ただし、「ラテン語ではなくあえてフランス語で『方法叙説』を書いたデカルトの試みの基本的態度と相反する」という、この著者のこの本における物言いには同意しかねる。

大和言葉で「存在学」をどう訳語にするのか、土台、ラテン語とフランス語の距離と、英語と大和言葉の距離を同日に論じるわけにはいかないはずではないか?


例によって未読書評だが、アマゾンの多くのレビューは、「わかりやすく」「平易なことばで」の衆愚論であふれかえっている。ならば大和言葉の宣長の国学を諸君は、いつどのように読み理解しえたのか?


話が逸れた。冒頭の西のようなエピソードがふんだんに盛り込まれていることのみ、期待して本屋に寄ってみることにする。


柳父 章
翻訳語成立事情