携帯をそろそろ機種変更しなければ、首が折れる。グラグラしている。
データ転送のユーティリティもない。で、情緒録ではない住所録のフリーソフトを久々にダウンロードしようと、検索ボックスに「じゅうしょろく」と入力したつもりで、変換すると「情緒録」。
(この期に及んでまだ指が言うことを聞かない。2行めの誤植は意図せざるもの)。
だが誤植はときに、閃きを与えてくれたりもする。誰かが昔、「創造的誤植」なんどと洒落たことがあったが、シャレに終わらないことが、確かにある。
「情緒録」。情緒の型録(カタログ)とも読める。モノのカタログなぞどうってことない(もちろん壮絶なものもあるにはある)が、情緒のそれは難しい。
ディックのSFに情緒オルガンだったか、感情オルガンだったか、サイキックな装置が登場する。
これはそれこそ情緒録がなければ設計できない。精神を高揚させたり、鎮静させたりするもので、ドラッグや脳内物質からディックが思いついた小道具だろうと思う。
怒りは鎮めるべきだし、笑いすぎるのもときに失礼にあたることがある。沈んだ気持ちを無理にも持ち上げなければならないこともある。
「喜怒哀楽」からして、すでに情緒録と言えないでもない。とすれば、ずいぶん昔から人は、感情とか情緒とかの一見つかみどころのないものを対象化して、数えられるもの(量子化)として扱ってきたことになる。
脳の仕組みと感情の関連なども、それだけで情緒録を構成するだろうし、それを知るだけで、感情オルガンを自らに施すこともできる。
たとえば、喜怒哀楽など感情の起こっているときには、記憶が形成されやすい、喜怒哀楽の楽を織り込むと勉強が進む、語呂合わせとか、こういうことを心理学で「情動喚起」と言うらしい。で、感情は脳の「扁桃体」という部位が司っていることになっている。やる気、モチベーションは、脳の「側坐核」という場所でつくられるなど。だからどうしたではあるのだが、こうした「認識」が感情オルガンをうまく奏でることに貢献している ことは確かだろう。
「認識は感情に伴われている」ということは、デカルトまでは真逆なことに捉えられていたかもしれないが、自ずと、いわば「思考の自然」とでもいうべきものは、二項対立図式などさっさと超えていたものと思われる。
岡潔が、情緒と創造ということを数学に持ち込んだのも、まことに当然至極のことに思えてくる。
「感情が認識を伴う」のである。
考えてみれば、「感情的」という語は、怒りなど否定的な感情についてのみ使われている。
楽しそうに微笑んでいる人に向かって、「そう感情的になりなさんな」とは言わない。
カントの三批判は、構成的であり「感性」は扱っても、「感情」を扱う必要はなかった。だからこそ、それは人工知能構成の古典的文献という者がいても当然だ。
どこでどう図式に囚われるようになったのか。「大人しくする」ことと思考の営為が、どこかで短絡してしまったのではないか。
あらためて『情念論』から辿り直してみるかと思わせてくれた誤変換、いや誤入力だった。
- デカルト, Ren´e Descartes, 井上 庄七, 野田 又夫, 森 啓
- 省察・情念論
- ジャン・ディディエ ヴァンサン, Jean Didier Vincent, 安田 一郎
- 感情の生物学