ブログはキリスト教徒が懺悔(confession)する告解室(いわゆる懺悔部屋)のようなものである、という話をどこかで読んだか、聞いたかした記憶がある。

この話は、だからブロガーというのは、けっこう暗いやつで、話し相手になる友達がいなかったりするんだ、と続いていたような気がする。

キリスト教のことはよく分からないが、なんとなくブログに書きこむと、懺悔するような気分になる、というその気分は分かるような気がする。

特定の相手に読んでもらうために書いているわけではなく(メンバーズアカウントを作った特定の仲間だけ読める、書けるという仕組みも備えることはできるが)、この「誰にともなく」、というのが懺悔室の環境に近いように感じられるのだ(告解室では生身の牧師?神父?が、もろ聞いちゃっているわけだが、秘密は漏れないことになっている。同時に神さま、キリスト?にもコンフェッションを聞いてもらっていることになるだろう。映画などでよく見るように、映画館のモギリのように、相手の顔は見えないようになっているし)。


というわけで、懺悔したい。
ひとつウソをついてしまった。先のエントリの居直りほどではないが、つい投函が遅れた納品物。
さっそく、まだ届きませんけどという、確認の電話が朝一で来た。
「すみません、投函が遅い夜というか、朝に近かったもので」
「そうですか、発送していただいていればいいんです」
「はい。今日着くかも、ですが、とにかく明日中には必ず届くと思います」
「わかりました」
今日が必着の〆切であることに、こちらは冷や冷やものだったのだが、そこはなんとすんなりクリアできてしまった(直接の担当者はどう思っているか分からない)。
予備日が取ってあったのだろう。
とりあえず、遅れによる迷惑はかけずに済んだ(と思える。一安心して良いだろう。ウソを除いて)。
 今夜から朝にかけて、また突貫である。
本当は、明日の朝一出して、明日中に届けようという腹だ。「投函した」というのはウソである。なんとくなく間に合う、予備日(業界ではアローワンスなどという)はあると踏んだ。踏めるか踏めないかで結構で事態は大きく変わる。ま、最近なかったギリギリではある。

引き受け時間は局に記録されるが、一々確認することはない。局と局の間でスタックがあったことにしよう。
などと考えている。
 いいのだ、大事に至らず、間に合うのだから。
結果オーライである。
 でもごめんなさい。すみません。
ま、後で何かあって、意外なトラブルに発展して、もう仕事は来ないという事態にならないとは言えない。
 だが、そうなったら仕方がない。
しばらく謹慎するだけである。
 そのうち、またお声がかかることもあるだろう。

と、確かに、これは告解室効果ありかも知れない。

すみません。ウソを言ってしまいました。
神様、なんとか大きな迷惑がかからないようにお願いします。悔い改めます。反省して、今後はもっとしっかりスケジュール管理をします。明日は死んでも投函しますので、どうか許し下さい。今夜は酒は一滴たりとも口にしませんから。
 申し訳ありませんでした。


小さな谷にはまって思い悩むよりも、少しでも風のあるほうへ向かって走れ。同じ明日は来ない。明けない夜はない。陽はまた昇る。


天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。(
伝道者の書 3章1節)


明日は別の仕事の校了日。終電近くになる。

もう一日ずれていたら、と思うと、やはりぞっとしないでもない。