レニングラード攻防戦の記録を読んだときの記憶が蘇った。

真冬の戦闘である。ドイツ軍の優勢でレニングラードが、ほぼ兵糧攻め状態の末期に至ったとき、

飢えた市民たちの第一の欲求は睡眠、第二に言うまでもなく食欲。

飢餓状態までは至らないまでも、満足に食えない。燃料も枯渇寸前で寒い。

こういう極限状態で、まっさきに消えたのが性欲だったという。

そこそこに食っていた中央は、町が無秩序状態に陥ったとき、婦女子が暴徒と化した男どもの強姦の被害に遭うことを警戒していたらしい。


しかし、そんなことは起きなかった。まっさきに性欲が消えたのだ。個体は個体を維持することだけを考える。寒さと飢えにさらされたとき。

小さな子どもが大人にやられる。ちょっと年上の子供に少し年下の子供がやられる。

まともに女性に相手にされない成人男子が、幼い子を襲う。

どこかで誰もが、なぜか、起きてしかるべき事件とどこかで理解してしまっているようなところがある。

確かに。それはそれで、見つめなければいけない時代が達してしまった現実だ。

しかし、身も蓋もない話ながら、こうした犯罪は空腹では起こせないのである

不謹慎な言い方になってしまうが、こうした犯罪は豊かさの証明になってしまいかねない。

情けない。

「衣食住足りて礼節を知る」

衣食住足りて、幼児殺しに走る? なんということか!

物盗りは言うまでもなく、おそらく昭和の30年代までは、殺しの多くも、カネがないせいで起きた。

もしくは明らかな怨恨、痴情のもつれ。それはもちろん許せない犯罪ではあるが、理解できた。

性的な犯罪ももちろん、大久保清をはじめ、敗戦直後から起き続けてきていはいる。子殺しもあった。昔から。

だが、たったこの一年間に起きた、奈良の事件、いま迷宮入りするかどうか瀬戸際の広島の事件などなど。

これはいったいなんなのだろうか?

宮崎勤や、酒鬼薔薇聖斗の事件とも、似て非なるものがあることに注意すべきだ。

犯人どもは、十分に食えているのである。前二者と違うのは、社会に適応してとりあえずの食い扶持を自ら稼いでいる点だ(あいりちゃん殺しはまだわからない。しかしこれまでの警察の発表を信じるなら、犯人はガスコンロを自分のカネで買うことができている)。

犯罪のために万の単位のカネを使えているのである。

しかしまた、猟奇事件にかつて登場しがちだった貴族でもない。

小金を使って、たまに美味しいものをたらふく食う贅沢はできる程度のカネを使って、

犯罪の風上にも置けない、最低最悪の所業を果たすのである。


こんなものを有り余らせるための「経済力」なのか?

こんなものをのうのうと生かしておくための経済なのか?


それとも、その経済力ゆえに、こんなものを生み出してしまったのか?


まるで飛躍しているが、こんなものは、バブル経済とその破裂の延長線上にあるような気がしてならない。


丁寧に経済史を、それこそ地を這うように、検証してみるべきだろう。

奈良の小林は、いったいいくら携帯にカネを使ったか? 使わせたか?

なんであれ、とにかく消費できているのである。その上、飯を食っているのである。高所得者ではなくとも、

そこそこに生きることができている。


食い物に飢えた犯罪者はいなくなった。

ならば、なぜ、こんなものの別の飢えが、ことほどさように飢渇されるような世の中になったのか。

何がそうさせているのか。


バブル経済とその破裂の延長線上の事件として、あえて捉えてみる。そういう試みも必要だろう。

精神分析ごときに任せたっきりでは埒はあかないのではないか。

「ゲーム脳」? あんな雑駁な仮説のできそこないで鬼の首を取ったような気になるわけにもいかない。


犯人が捕らえにくいのも、そういう経済の「「変調」を踏まえた、生活者像が掴みきれていないからだろう。

アメリカに始まるプロファイリングは、これも実に悔しいことに、多少ともそこをカバーし始めているようだ。

日本にまともなプロファイリングが作動していないのも、自国の経済の「変調」をつかめていないからだ。


人は人、人間であるかぎり本質は変わりないなどという、なんの根拠もない憶説を捨てるべきだろう。

経済の「変調」は人の本性を変えつつある。


しかもその「変調」は、所得の高低にほとんど無関係に作用しているものであることを肝に銘じるべきである。


アルケール・ロザンヌ ストーン, Allucqu`ere Rosanne Stone, 半田 智久, 加藤 久枝
電子メディア時代の多重人格―欲望とテクノロジーの戦い