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【再掲Rivision】について

以下の記事は2011年07月27日 15:13:12 に公開された。再掲する気になったは、超然主義的な〈反-政治〉をよしとしていた者が、どういうわけで憲法を読んだり三権分立だの高校の倫社の教科書を読み直すような態度に変わっていったかをトレースしておく必要を感じたからだ。真っ先に再掲しておきたいと思ったのは、「バスの運転手を《バスを止めずに交代させる》にはどうすればいいか?」云々を書いた記事だが、検索に引っかからないので取りあえず近いものを再掲する。よく記事を見直してみると、記憶と異なり2010年から、つまり東北大震災以前に民主党なるものに何故か関心を寄せ始めていたことがわかる。このあたりも順次、再掲する。

再掲意欲を与えてくれたのは、或る高名な「社会学者」による、わがツイッターアカウントに対するブロックである。”なかなかの”ブロックに深く感謝する。

なお現在の目で見ると、終わりの引用はどうでもいい。「政治的」は「ポリス的」と原語的に読み直すべきだと最近になって気づいたからだ。

------------以下【再掲】記事---------------------------------------------------------------

<blockquote>「平等」も「平和」も「人権」も、ことごとくこの国は、



すべて履き違えている。「この国」というのは「われらが」日本国のこと。


「この国」と言うのが、いささか言い過ぎとするなら、


現内閣政府、これを構成する政党のド素人政治家は、と言っておこう。


ならオマエが履き違えずにやってみろという脊髄反射な反応に対してお断りしておく。


政治家というのは、

例えば大工さんが家を建てるプロであるように、


その道のプロである。腕の悪い自称プロに注文をつけるのは当然のことである。


「直接民主主義」などというわけのわからんものを持ち出す輩は、ちょっと後で料理するので。


その上でもう少しツッコンでおくと、


家を建てることと違って、政治というのはどこか鏡のようなところがある。


そこには、同じ生身の人と口舌と文書があるだけだからだ。

――ときに「暴力装置」と化す「武」との繋がりの話は、とりあえずおく。これはまた後日。加えて「宰相」=皇帝を補佐するという意味を失い「首相」と呼称することになった経緯、歴史も。王政復古の話ではないと、ここでもまた断っておく。この断り一々入れるのがそもそも馬鹿げた時代の水準というか――


時の政治は、時の「国民」の集合的無意識まで含めて、そのいくばくかを反映し、映し出す。そう考えることができる。


中国や北朝鮮のような一党独裁の国ではないかぎり、なおのことこの反映はリアルになる。


その意味で、「平等」も「平和」も「人権」も、すべてを履き違えているのは、


履き違えてきたのは、

ひょっとして「われわれ」一人一人なのだ。


そう考えておくほうが、今後のためになるだろう。


「革命」という言葉も安く軽く使われるようになった。それに連れて「市民」という


これもわけのわかったような結局わからない言葉が、黄門様の印籠のように一人歩きしたりもした。


だが、それらもそろそろ終わりを告げようとしている。


そういう重大な時、時熟を、あの大天災が与えてくれたのだと思うしかない。


それをよりによってその天災を「延命」のダシにしている連中がウロチョロしている。


菅直人だけではないのだ。



PS.


政治家に絶望しても、政治は僕らを追いかけてくる。

政治に絶望することはできない。


――姜 尚中(テレビ朝日「サンデーフロントライン」での発言を要約)

2011年07月27日 15:13:12<blockquote />