ヘーゲルの射出機 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

といっても、このカタパルトはどちらかというとブーメラン的だ。


マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表する約100年前、1807年に、同じくドイツの哲学者ヘーゲルが『精神現象学』を書いている。


1867年に『資本論』第一部を書き上げることになるマルクスも、このヘーゲルから出発した。


いきなり非ユークリッド幾何学と言われても、ユークリッド幾何学が分かっていなければ、どこが「非」なのかわからないように、マルクスを理解しようとすればヘーゲルを理解しておくほうが、より透徹した読みができると思えるが、時代はそうは動かなかった。


なにせ、マルクスはヘーゲルの思想を「転倒」する仕方で、自らの思想を磨いていったなどと言われたために、マルクスを読みさえすれば、ヘーゲルを同時に超え出ることができるなどと虫のいいことを考える連中が多すぎた。そこはマルクスにもまったく責任がないわけでもない。


もちろん、『資本論』を読むのに、ヘーゲルを介さないと理解できないというようなことはないはずだが、でも「疎外」論あたりになってくると怪しくなる。


ヘーゲルの疎外論をマルクスもしっかり踏まえているからだ。


主観と客観をともに乗せているのが「意識」で、意識している自己がいることを意識する自己意識つーもんがあるというセルフ・オブザベーションのような「観察」をやったのがヘーゲルだとすれば、マルクスは、そういう意識を生成する主観・客観、主体・客体を支える構造がある、とやった。


ぐたぐた言わずに、その構造を変えちまえってことだ。そうすればヘーゲルがいうような「精神の王国」にヒッキーせずとも、意識は世界とともに即自的に存在してなんの問題もないものに成るだろう、そう考えた。


もっともこれはエンジンの解釈なので、真に受けないように(笑)


ロシアで社会主義革命が起きるずいぶん前に、マルクスは死んでしまった。ロシア革命とマルクスの仕事は、まあほとんど関係がない。関係がないが、生き残った連中が、マルクス・レーニン主義など標語しちまったもんだから、いまだにマルクスはロシア人だとカン違いしている人もいる(笑)


政治革命は、革命よりも狭い。


暴力革命か無血革命かを問わず、革命という語は、いつからか暗に政治革命を指すようになった。


政治革命ではカバーできないものが「意識」だった。


ヘーゲルもマルクスも「意識」を問題にした。


ヘーゲルの観測機もしくは射出機は、言語学や言語の科学に引き継がれたとおぼしい。


これを、詩作の実体験を軸に、古い話で恐縮だが、俗流マルクス主義芸術論と闘いながら、文学の理論として普遍化しようとしたのが、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』だ。


これもほとんど読まれていない。古いからではない。


読まなくても、詩は書けるという反発、「正統」アカデミズムの外にある著作であるという理由での無視、などなどつまらん理由で、ほぼアイドル本とひとしなみの扱いをされて来たように思われる。


で、この本、ちょっとヘーゲルのキー概念をおさらいすれば、どんなに切れ味の鋭いものになっているかを理解できる。ついでにフッサールの現象学もね。だから吉本はヘーゲル主義などという、おひゃらかしからは遠いところでの話だ。


しかし「主義」の好きな連中が多くて嫌になるね、ったく。



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