ほぼ日でカレーの対談が年末年始をかけて公開されていて、もうこれが面白くて面白くて。
面白かったところだけを抜粋して挙げるとしたら4つくらいある。
まず1つ目は、たまねぎを炒める事について「時間じゃない」っていう考え方について。
たまねぎが飴色になるまで炒めるっていう行為には必ず「時間をかける」っていう考えが一緒に枕詞的にくっついてきていたような気がする。でも時間をかけずに結果を出すことも出来るらしい。
それは「フライパンで最初から強火で炒めて、焦げそうになったら水を足していくと10分で飴色になる」。
でもこの事について対談者全員が「なんか複雑な気持ち」って言ってた。この気持ちが凄く解って。
10分で飴色になったたまねぎと3時間かけて飴色になったたまねぎと科学的に同じ味だとしても、3時間かけたたまねぎの方が「頑張った」とか「心を込めた」とか精神的なところで噴出する「あじ」みたいなものが含まれていて、「やっぱりたまねぎを飴色にする行為は時間をかけるべきだよね~」っていう意見もあって、それを「過去的」「未来的」っていう言い方をしてたり。
自分なりの答えは、時と場合によって時間をかけたかったり、かけたくなかったりするから使い分けが出来るようになると便利だろうなあ~とは思っている。でも本来は時間をかけてたまねぎは飴色にするべき、みたいな精神が付いて離れないでいる。
2つ目は、これまたたまねぎの話しなんだけど、「たまねぎをスパイスとして使う」という行為について。
10個たまねぎをカレーに使うとして、飴色にするたまねぎは9個、残り1つは仕上げの終わりの段階で入れてわざと「たまねぎ臭さ」をカレーに付けるという作り方を実践してた。
これは結構色々な料理に応用されていていた。先日食べた「アジのなめろう」も生のたまねぎが入っていた。納豆にも美味しいらしい。
葱を薬味としてよく使うことを考えれば、たまねぎだってそういう用途で使うのもアリだよなあ、と思った内容だった。
3つ目はカレーっていう料理には神様が存在しないっていう話。
これはもう目から鱗がぼろりと落ちた。カツ丼を例にとってみると、カツ丼の神様っていうのが存在するように思う。アジの濃さとか卵の半熟具合とか好みの問題はあるけど、こうすると美味しいっていう方程式がカツ丼にはあると思う。カツ丼に限らず、おおよその料理にはそういう方程式があって、それを上手に作れる神様的存在が居る。
しかしカレーには「こうすると美味しい」という方程式が成り立たない料理だ、という話しが挙がって、そうだよなあ~と思わざるをえなかった。
僕の好きなカレーっていうのがあって、これは人気はあるけど万人ウケはしない。カレーってそういう食べ物だと。でカレーの好みは結構家族に起因してるよね。という話しも面白かった。要は母親の作ったカレーっていうのが好みのベースにあるという事。
4つ目は日本人がよく言う「味の深み」っていう考え方について。
カレーに例えて言うと、カレーに市販のルーを使う際には2つ以上のルーを入れるという。そうすると味が複雑になる。この「複雑」っていうのが日本人には「深み」として捉えられる、という話し。
深みという言葉だけ抜き出すと、それが美味しい事の様に思えていたけど、そうではなくて複雑=料理の奥深さ=深み、という様な流れで、それが味とくっついて「味の深み」というような表現になっているのかなあ、と単純に理解した。
それにしてもこの深みという考え方は面白いので、例えばコショウ1つとっても、ピンクコショウと黒コショウを混ぜて料理に使用してみたりするだけでも「深み」っていうのは成り立つんじゃないか?と勝手に想像してみたり。ちょっと追求してみたくなる考え方だ。
面白かったところだけを抜粋して挙げるとしたら4つくらいある。
まず1つ目は、たまねぎを炒める事について「時間じゃない」っていう考え方について。
たまねぎが飴色になるまで炒めるっていう行為には必ず「時間をかける」っていう考えが一緒に枕詞的にくっついてきていたような気がする。でも時間をかけずに結果を出すことも出来るらしい。
それは「フライパンで最初から強火で炒めて、焦げそうになったら水を足していくと10分で飴色になる」。
でもこの事について対談者全員が「なんか複雑な気持ち」って言ってた。この気持ちが凄く解って。
10分で飴色になったたまねぎと3時間かけて飴色になったたまねぎと科学的に同じ味だとしても、3時間かけたたまねぎの方が「頑張った」とか「心を込めた」とか精神的なところで噴出する「あじ」みたいなものが含まれていて、「やっぱりたまねぎを飴色にする行為は時間をかけるべきだよね~」っていう意見もあって、それを「過去的」「未来的」っていう言い方をしてたり。
自分なりの答えは、時と場合によって時間をかけたかったり、かけたくなかったりするから使い分けが出来るようになると便利だろうなあ~とは思っている。でも本来は時間をかけてたまねぎは飴色にするべき、みたいな精神が付いて離れないでいる。
2つ目は、これまたたまねぎの話しなんだけど、「たまねぎをスパイスとして使う」という行為について。
10個たまねぎをカレーに使うとして、飴色にするたまねぎは9個、残り1つは仕上げの終わりの段階で入れてわざと「たまねぎ臭さ」をカレーに付けるという作り方を実践してた。
これは結構色々な料理に応用されていていた。先日食べた「アジのなめろう」も生のたまねぎが入っていた。納豆にも美味しいらしい。
葱を薬味としてよく使うことを考えれば、たまねぎだってそういう用途で使うのもアリだよなあ、と思った内容だった。
3つ目はカレーっていう料理には神様が存在しないっていう話。
これはもう目から鱗がぼろりと落ちた。カツ丼を例にとってみると、カツ丼の神様っていうのが存在するように思う。アジの濃さとか卵の半熟具合とか好みの問題はあるけど、こうすると美味しいっていう方程式がカツ丼にはあると思う。カツ丼に限らず、おおよその料理にはそういう方程式があって、それを上手に作れる神様的存在が居る。
しかしカレーには「こうすると美味しい」という方程式が成り立たない料理だ、という話しが挙がって、そうだよなあ~と思わざるをえなかった。
僕の好きなカレーっていうのがあって、これは人気はあるけど万人ウケはしない。カレーってそういう食べ物だと。でカレーの好みは結構家族に起因してるよね。という話しも面白かった。要は母親の作ったカレーっていうのが好みのベースにあるという事。
4つ目は日本人がよく言う「味の深み」っていう考え方について。
カレーに例えて言うと、カレーに市販のルーを使う際には2つ以上のルーを入れるという。そうすると味が複雑になる。この「複雑」っていうのが日本人には「深み」として捉えられる、という話し。
深みという言葉だけ抜き出すと、それが美味しい事の様に思えていたけど、そうではなくて複雑=料理の奥深さ=深み、という様な流れで、それが味とくっついて「味の深み」というような表現になっているのかなあ、と単純に理解した。
それにしてもこの深みという考え方は面白いので、例えばコショウ1つとっても、ピンクコショウと黒コショウを混ぜて料理に使用してみたりするだけでも「深み」っていうのは成り立つんじゃないか?と勝手に想像してみたり。ちょっと追求してみたくなる考え方だ。


























