2022/02/11金 1132

ameba

禅問答も神話。

禅問答というのは極めて短い叙述のようなドラマとなっていて、大体いずれも、人物が
登場しているのだと思う。
精神医学などで頻繁に見られる神話といったものは、それら、エディプス神話みたいなものから、
私らは、なにやら畏敬の念、驚きみたいなものに打たれて、心が回心させられるかの
ようで、
そのために、カタルシスが生じて、とどのつまり滞っていた葛藤の解決がもたらされるという仕組み、構造になっている。
これはでも、理屈ではなくて、そのまま、ありのままの劇を受けて、びっくりしたり
笑ったり、泣いたりの感動がないとまずい。

処で、禅問答はとても短い。
西欧の神話と違う処は、短すぎて不親切とも見える処だとおもう。説明がないというか、それでも、西欧のそれは禅問答と比較したら、饒舌なのかも知れない。
一定の量、長さの文章を短くしていくと、文章全体がかなり引き締まる。新聞投稿など
している人たちは、おおかた、ざっとイメージをまとめて書いた、荒書きを元に、文字数にはまるように、推敲していく。
当初、800文字くらいの文章だったものが、意味を変えずに400や500文字にしていく。
これの佳い処は、文章が引き締まる処にあって、所謂キレが佳くなる一面があると思うと
言っても、書いている人はこのことを否定しないと思う。

こうした、長さを詰める工夫は面白いものがあると思う。
新聞朝刊1面のコラム記事なども大体が、500文字か600文字だと思う。無駄がほとんどないことと、それだけ何だか、言いたいことが迫ってくるかのようで時々、すごい文章に出会ってその辺りは感心させられることがある。

これで、簡単な話しで「達磨の安心」というのを、小説仕立てにしたらどうなるか?

達磨禅師に入門の赦しを受けて、日頃僧堂で作務をしていた神光は
自らの心の中の、迷いがなんとしても吹っ切れず、煩悶とした日々を送っていた。
先達や、達磨のように自身もなんとか悟りたいものだと考えていた。

自力では叶わないとみてか、神光は一つの決心をした。
やはりここは、達磨禅師に答えを仰ごうと思う。いくら勉強もし、僧堂で修行も
積んだが、果てしが無い。
そう思った、神光はあることを思いついた。

それは、見方を変えれば茶番かも知れないが、神光の決意のほどを達磨に見せるのには
痛いことだが、引き換えにも悟ることに勝ることだと考えた。
神光は翌日、達磨の前に進み出たが、
その決意を実行しようと、あらかじめに目論んでいた。
それは、自らの臂を短刀で切り落とすというものだった。


小説仕立てか、漫画仕立てのストーリー化にすると、こんな具合になると思う。
この後は、想像いただくとして、
この、問答がこんな上述なようで、ドラマとなるとすると、
テキスト量がどのくらいになるか?
面白いと思うけども。
だけども、こうした風に書いていくと、それは、読み物から受け取れる感じとして、冗長なのだろうか? 

そうして、わずかというか、文章の10行ほどか、20行ほどになっている、漢詩? 漢文系の、達磨の安心、日本語に訳されたものでもよいのだけど、
数行で、のこの、神光が悟った一遍のドラマを、表されると
受け手、読者の方は、その実際のテキストを前にして、考えるに違いない。
漫画みたいに、親切な詳しい書き方ではないからだ。

親切でないと言えば、どこか、突き放されたかのような印象もあると思う。
実際はそうなのだろうと思う。作者の意図が。
私らは禅問答に、端から突き放されている。

そんな突き放し、つまり「お前がやれよ」「読み取れよ」みたいな部分が
結構、これで、知的理解力なども鍛えられもするのだろうと思う。
それで、達磨の安心もそうなのだけど、何だか達磨安心を読んで。
神光の愚かさとか、悟りというのは深淵だとか、難しいとか、わかりそうだがわからないと
いった感想が出ると思うけど、
禅特有の粘弄、あぁでもない、こうでもないといったそsれこそ、修養にまつわる
あれやこれやと考えると言う部分が、触発される効果な面もあるのかも知れない。
だから、参禅とか言われている。

でも、長いドラマにしろ、こうしたエッセンス的な在り方にしろ、どちらにしても
悟れないでいた、神光が悟ったというドラマとみれば、これは、短かろうとも
神話には違いない。
それと、前述でふれたことと関係しているけども、
頭で理解しても、ことに及ばない。ドラマみたいなものは感動みたいなことを
以て、感じ入ることを以てしないと真相が理解できないこととなっている。
禅なども特に強調しているのは、知的な理解、知的見解を嫌う処にある。

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