この震災で、人の本性が見えてしまった人がたくさんいることと思います。
私もその一人ですが、
人は、何か問題が起きたとき、怒ったときに、本当の姿がよく分かるなどとも言われていますが、
まさに今回はそれがよく解ったできごとではないでしょうか?
それが、露わにされているのは、このテーマでも同じことですね。
・・・
さて、ここで問題にしている「過保護の流れ」はどうやって生まれたのかは解りませんが、
最初はたった一人、たった一つの出来事からだったのではないでしょうか?
理不尽な要求をする親、それが受け入れられないとわかると、暴力や強硬手段に訴え・・・
それを受ける側(学校、教師
)は、
それが怖い、
根も葉も無い噂でも、一度建てられた不評の火消しが難しいこと、
教師側
自らに非があってもなくても、そういった不都合を避けようとするのは自然でしょうし、
それがまた別のところに波及し、一つの流れになっていく。
一度大きなうねりとなってしまった後は、もう引き返せない。
そんなところではないでしょうか?
以前にも書いた、IWC(国際捕鯨委員会)
の活動も最初は小さいロビー活動からだし、
最近の一つの流れになっている、反原発運動
も、各地での小さい運動から広まっていること。
よくも悪くも、一つの大きい流れを作るのに、実はそれほど大勢の人が必要なわけではなく、
それがいかに受け入れられやすいか否かで、
その後の大きさが決まってくるのではないでしょうか?
残念ながら、過保護の流れは、必要以上に大きくなってしまい、
最初は、単に、親が子どもを過剰に保護していただけだったのが、
いつしか、その親の気持を重視せざるを得なくなった。
・・・最近の子どもは何をするか解らない。
と、近所の(周りの)大人も声をあげなくなった。
と、よく言われていますが、
本当に犯罪は凶悪化し、数も増えたのでしょうか?
これは、実は本当のところは解らないんですよ。
時代が変わって、情報が氾濫し、得やすくなったことで、
いろんな「過去にない」犯罪もあることは、確かかもしれません。
しかし、科学の進歩による、科学捜査が発展もしていることもあって、
犯罪の「認知率」自体が上がっている一方、
人手が足りないなどもあって、検挙率が下がっていることもある。
また、かつては認識されなかった、というだけで、
過去にも同様の手口の犯罪はあったかもしれないし、
個人主義の台頭で、訴える人が増えたことを逆に捉えれば、
かつての犯罪数自体が少なかったとは言い切れないのです。
もちろん、だからといって、
「恐れることはない。どんどん他人の子どもをしかろう。」
と標榜するわけではないですが、
「何も言わない人」の言い分が、実はその根拠が、曖昧なんだということです。
これは、対テロでの話でもよく言われることで、
結局は、言った者勝ち、やった者勝ち、の構図を好きなように作らせているだけです。
しかし、皆、争いごとは好まないでしょうし、
他人の子を注意するというのは、確かに今やリスクを伴うものとなってしまいました。
ただ、そのリスクを他人(学校など
)任せにし、
そのくせ「結果」が悪ければ、非難だけをするようになり・・・
それなら、学校
をトコトン信頼して、叩くの蹴るのもすべて任せればいい、と思うけど、
我が子に手を上げられない親は、
ましてや他人が自分の子に手を上げるなどもってのほか、
というところでしょう。
・・・
しかし、いい加減、目を覚ましましょう。
学生時代までは、そうやって学校
が守ってくれても、
社会に出れば、そう簡単にはいかないのです。
中には、子どもの学生気分のまま、会社にまで難癖をつけに行くバカ親もみられますが、
基本的には、学校
までとは違い、受け入れてもらえることのほうが少ないのです。
しかし、親のわがままを続けていたのであれば、
子は自然と会社では使い物にならなくなる。
そんな大人に育てることが、本当の愛情ですか?
子どもは社会が育てる
というなら、それもその通りでしょう。
しかしそれなら、社会が学校、教師
を信頼してやり、
一部の理不尽な親からの要求にも毅然とした態度を、安心して取れるように、
学校、教師
を守ってやればいい。
そして、大きい「輪」の中から、一人でも勇気を持って、飛び出してほしい。
よくも悪くも、大きなうねりは小さな点からです。
・・・できるはず。
・・・続く。

私もその一人ですが、

人は、何か問題が起きたとき、怒ったときに、本当の姿がよく分かるなどとも言われていますが、
まさに今回はそれがよく解ったできごとではないでしょうか?

それが、露わにされているのは、このテーマでも同じことですね。

・・・
さて、ここで問題にしている「過保護の流れ」はどうやって生まれたのかは解りませんが、
最初はたった一人、たった一つの出来事からだったのではないでしょうか?

理不尽な要求をする親、それが受け入れられないとわかると、暴力や強硬手段に訴え・・・

それを受ける側(学校、教師
)は、それが怖い、
根も葉も無い噂でも、一度建てられた不評の火消しが難しいこと、

教師側
自らに非があってもなくても、そういった不都合を避けようとするのは自然でしょうし、それがまた別のところに波及し、一つの流れになっていく。
一度大きなうねりとなってしまった後は、もう引き返せない。

そんなところではないでしょうか?
以前にも書いた、IWC(国際捕鯨委員会)
の活動も最初は小さいロビー活動からだし、最近の一つの流れになっている、反原発運動
も、各地での小さい運動から広まっていること。よくも悪くも、一つの大きい流れを作るのに、実はそれほど大勢の人が必要なわけではなく、
それがいかに受け入れられやすいか否かで、
その後の大きさが決まってくるのではないでしょうか?

残念ながら、過保護の流れは、必要以上に大きくなってしまい、
最初は、単に、親が子どもを過剰に保護していただけだったのが、
いつしか、その親の気持を重視せざるを得なくなった。

・・・最近の子どもは何をするか解らない。
と、近所の(周りの)大人も声をあげなくなった。

と、よく言われていますが、
本当に犯罪は凶悪化し、数も増えたのでしょうか?

これは、実は本当のところは解らないんですよ。

時代が変わって、情報が氾濫し、得やすくなったことで、
いろんな「過去にない」犯罪もあることは、確かかもしれません。
しかし、科学の進歩による、科学捜査が発展もしていることもあって、
犯罪の「認知率」自体が上がっている一方、
人手が足りないなどもあって、検挙率が下がっていることもある。
また、かつては認識されなかった、というだけで、
過去にも同様の手口の犯罪はあったかもしれないし、
個人主義の台頭で、訴える人が増えたことを逆に捉えれば、
かつての犯罪数自体が少なかったとは言い切れないのです。

もちろん、だからといって、
「恐れることはない。どんどん他人の子どもをしかろう。」
と標榜するわけではないですが、
「何も言わない人」の言い分が、実はその根拠が、曖昧なんだということです。

これは、対テロでの話でもよく言われることで、
結局は、言った者勝ち、やった者勝ち、の構図を好きなように作らせているだけです。

しかし、皆、争いごとは好まないでしょうし、
他人の子を注意するというのは、確かに今やリスクを伴うものとなってしまいました。
ただ、そのリスクを他人(学校など
)任せにし、そのくせ「結果」が悪ければ、非難だけをするようになり・・・

それなら、学校
をトコトン信頼して、叩くの蹴るのもすべて任せればいい、と思うけど、我が子に手を上げられない親は、
ましてや他人が自分の子に手を上げるなどもってのほか、
というところでしょう。

・・・
しかし、いい加減、目を覚ましましょう。

学生時代までは、そうやって学校
が守ってくれても、社会に出れば、そう簡単にはいかないのです。
中には、子どもの学生気分のまま、会社にまで難癖をつけに行くバカ親もみられますが、
基本的には、学校
までとは違い、受け入れてもらえることのほうが少ないのです。しかし、親のわがままを続けていたのであれば、
子は自然と会社では使い物にならなくなる。
そんな大人に育てることが、本当の愛情ですか?

子どもは社会が育てる
というなら、それもその通りでしょう。

しかしそれなら、社会が学校、教師
を信頼してやり、一部の理不尽な親からの要求にも毅然とした態度を、安心して取れるように、
学校、教師
を守ってやればいい。
そして、大きい「輪」の中から、一人でも勇気を持って、飛び出してほしい。

よくも悪くも、大きなうねりは小さな点からです。

・・・できるはず。

・・・続く。