・・・これについては、かなりの批判は覚悟の上ですが、
はっきり申し上げて、
今まで数千人の学生を教えてきた私の個人的観点ではあるものの、
子どもの扱いは、
動物と同じようなものだということです。
手塩にかけ、大事に大事に育てたから、よいというものでは、決してなく、
そこで、いわゆる「優等生」は作れても、「本物」は作れない、ということなんです。
例えばの話をしましょう。
私は、このブログ
でも明らかでしょうけど、とにかく「食」に関して興味があるので、
味には少しうるさいつもりでいます。
さて、ここで今、窮地に追いやられてしまっている、牛肉
に目を向けます。
今は、かつてとは違い、科学的な検証もずいぶんなされ、
その飼育方法にも反映されています。
その結果、日本人がよく好む、「トロける」味わいを作るものとして、
グレーンフェッド
という飼育方法が主流になっています。
穀物を主に食べさせるというものですが、脂の乗りが良くなる、トウモロコシ
を与えるのが多いです。
これにより、いわゆる「サシ」が多く入り、「噛まなくていい」レベルが高いほど、
高級、ともされるようになってきてしまいました。
しかし、好みはあるでしょうけど、本当においしいのは
グラスフェッド
つまり、草を主に食べさせて育てられたものだと、私は感じています。
本当にそうやって育てられた牛肉
は、食べたときに口の中に、その草の香りすら感じることができ、
グレーンフェッド特有の嫌な獣肉臭さもまるでないのです。
自由に、草を食べて育ったんだな、と感じるほど。
話がそれてしまったように感じるかもしれませんが、
実際、これを人間に当てはめてみたら、どうでしょう?
ゲーム、本
、パソコン
、携帯電話
、服・・・
様々なものを簡単に手に入れることができ(親が与え)、
「こうすれば、こうなる」というレールを敷いてやり、
当人はその上を走る。
そこには、学校
の選択、学習塾への入塾、送迎、体調管理、授業参観・・・
ありとあらゆる「保護」があります。
そのレールに乗りきれる能力がなかったものは脱落、もしくは下位のレールを敷きなおして、
再びそこを走るようになり、
東大へ行くような優等生(牛
ならA5ランク)から、
一般のスーパーでも手に入れられる程度のA3ランク程度の者などに育っていくわけです。
暑ければ牛舎で扇風機を回してやり(家でも学校でもクーラーを使い)、
寒ければ牛舎で寒さを遮ってやる(やはり、家でも学校でも暖房を使う)。
そうして育ったものに「臭み」がないわけないですよね。
特に、鶏
の場合、病気に弱いため、抗生物質をエサに混ぜて育てられたものは、
どれだけ臭みを抜いても、私は食べることすらできませんし。
人間も、一度しみついてしまった修正、考えはどうしても、なかなか抜けないのです。
だからこそ、年端もいかない、幼いころにどれだけきちんと、
「厳しく」
育てられるか、にかかっているのです。
「三つ子の魂百まで」
とは、よく言ったものだと思います。
確かに、わが子を目の前にし、「この子には・・・」と思いたくなるのも無理はないでしょう。
また、「子育てに正解はない」とも思います。
しかし、保護をして育てた「結果」は、往々にしてよくない。
人の迷惑になることは絶対にダメなんだ、と教えきれず、叩くことすらまともにできないから、
人の痛みがわからないまま育ってしまう。
(場合によっては、自分の痛みすらわからないことも
)
私の時代は、家
でも学校
でも、ましてや近所でも
口うるさい、怖い、鬱陶しい、といった「オヤジ」がよくいました。
子どもの観念には、正確なリスクの概念もなければ、
そのリスクヘッジ(回避)の方法論すらもってないのが一般です。
そこに、理性のきかない好奇心がある。
その一方で、「大丈夫だろう」という、知識の甘さからくる楽観論、
鬱陶しがり、反発をし続けていながらも、「最後は」親が護ってくれると思う幼児性。
それらを親、教師、周りの大人もうまくコントロールできないでいるがために、
結果として「保護」に落ち着き、多少のリスクを甘受している、という状態ではないでしょうか?
しかし、彼らがそのまま物心がつき、単独行動ができるまでに育った時、
仮に、その犯した犯罪の責任をどこまで負えますか?
それでも、「わが子」だけが無事なら、それで満足ですか?
・・・
教育評論家に言わせれば、いまや何でも「体罰」、「虐待」と認識されてしまいますね。
しかし、理性がきちんと身についていない状態の人間(つまり、特に子ども)は、
その体で「覚えて」もらうしかないし、また、それでよいのではないでしょうか?
学校の勉強がどうしてもできないなら、無理をして学問を「憶える」必要はなく、
スポーツでも何でも、それ以外を「覚えて」いけばよいのと同じことで、
評論家の好む、「叱る」と「怒る」を区別する必要もなく、
まずは、口で怒り(叱り)、それでも解らないなら、「覚え」させればいい。
(「憶え」=頭で記憶。「覚え」=体で体覚(感覚)。と使い分けています)
いずれにしても、「憶え(覚え)」させるのをあきらめて、
「適当に」するから、結果も伴わないわけで、
(親側も子どもも)
やるときは、トコトンやる。
これが「教育」というものではないでしょうか?
そうすれば、科学的に作られたクセのあるものを「育てる」のでなく、
自然の厳しい環境において「育つ」のを待てるようになるのではないか、と思います。

はっきり申し上げて、
今まで数千人の学生を教えてきた私の個人的観点ではあるものの、
子どもの扱いは、
動物と同じようなものだということです。

手塩にかけ、大事に大事に育てたから、よいというものでは、決してなく、
そこで、いわゆる「優等生」は作れても、「本物」は作れない、ということなんです。

例えばの話をしましょう。

私は、このブログ
でも明らかでしょうけど、とにかく「食」に関して興味があるので、味には少しうるさいつもりでいます。

さて、ここで今、窮地に追いやられてしまっている、牛肉
に目を向けます。今は、かつてとは違い、科学的な検証もずいぶんなされ、
その飼育方法にも反映されています。

その結果、日本人がよく好む、「トロける」味わいを作るものとして、
グレーンフェッド
という飼育方法が主流になっています。

穀物を主に食べさせるというものですが、脂の乗りが良くなる、トウモロコシ
を与えるのが多いです。これにより、いわゆる「サシ」が多く入り、「噛まなくていい」レベルが高いほど、
高級、ともされるようになってきてしまいました。

しかし、好みはあるでしょうけど、本当においしいのは
グラスフェッド
つまり、草を主に食べさせて育てられたものだと、私は感じています。

本当にそうやって育てられた牛肉
は、食べたときに口の中に、その草の香りすら感じることができ、グレーンフェッド特有の嫌な獣肉臭さもまるでないのです。

自由に、草を食べて育ったんだな、と感じるほど。

話がそれてしまったように感じるかもしれませんが、
実際、これを人間に当てはめてみたら、どうでしょう?
ゲーム、本
、パソコン
、携帯電話
、服・・・様々なものを簡単に手に入れることができ(親が与え)、
「こうすれば、こうなる」というレールを敷いてやり、
当人はその上を走る。
そこには、学校
の選択、学習塾への入塾、送迎、体調管理、授業参観・・・ありとあらゆる「保護」があります。

そのレールに乗りきれる能力がなかったものは脱落、もしくは下位のレールを敷きなおして、
再びそこを走るようになり、
東大へ行くような優等生(牛
ならA5ランク)から、一般のスーパーでも手に入れられる程度のA3ランク程度の者などに育っていくわけです。

暑ければ牛舎で扇風機を回してやり(家でも学校でもクーラーを使い)、
寒ければ牛舎で寒さを遮ってやる(やはり、家でも学校でも暖房を使う)。
そうして育ったものに「臭み」がないわけないですよね。

特に、鶏
の場合、病気に弱いため、抗生物質をエサに混ぜて育てられたものは、どれだけ臭みを抜いても、私は食べることすらできませんし。

人間も、一度しみついてしまった修正、考えはどうしても、なかなか抜けないのです。

だからこそ、年端もいかない、幼いころにどれだけきちんと、
「厳しく」
育てられるか、にかかっているのです。
「三つ子の魂百まで」
とは、よく言ったものだと思います。

確かに、わが子を目の前にし、「この子には・・・」と思いたくなるのも無理はないでしょう。
また、「子育てに正解はない」とも思います。

しかし、保護をして育てた「結果」は、往々にしてよくない。

人の迷惑になることは絶対にダメなんだ、と教えきれず、叩くことすらまともにできないから、
人の痛みがわからないまま育ってしまう。

(場合によっては、自分の痛みすらわからないことも
)私の時代は、家
でも学校
でも、ましてや近所でも口うるさい、怖い、鬱陶しい、といった「オヤジ」がよくいました。

子どもの観念には、正確なリスクの概念もなければ、
そのリスクヘッジ(回避)の方法論すらもってないのが一般です。

そこに、理性のきかない好奇心がある。

その一方で、「大丈夫だろう」という、知識の甘さからくる楽観論、

鬱陶しがり、反発をし続けていながらも、「最後は」親が護ってくれると思う幼児性。

それらを親、教師、周りの大人もうまくコントロールできないでいるがために、
結果として「保護」に落ち着き、多少のリスクを甘受している、という状態ではないでしょうか?

しかし、彼らがそのまま物心がつき、単独行動ができるまでに育った時、
仮に、その犯した犯罪の責任をどこまで負えますか?

それでも、「わが子」だけが無事なら、それで満足ですか?

・・・
教育評論家に言わせれば、いまや何でも「体罰」、「虐待」と認識されてしまいますね。

しかし、理性がきちんと身についていない状態の人間(つまり、特に子ども)は、
その体で「覚えて」もらうしかないし、また、それでよいのではないでしょうか?

学校の勉強がどうしてもできないなら、無理をして学問を「憶える」必要はなく、
スポーツでも何でも、それ以外を「覚えて」いけばよいのと同じことで、
評論家の好む、「叱る」と「怒る」を区別する必要もなく、
まずは、口で怒り(叱り)、それでも解らないなら、「覚え」させればいい。

(「憶え」=頭で記憶。「覚え」=体で体覚(感覚)。と使い分けています)
いずれにしても、「憶え(覚え)」させるのをあきらめて、
「適当に」するから、結果も伴わないわけで、
(親側も子どもも)
やるときは、トコトンやる。

これが「教育」というものではないでしょうか?
そうすれば、科学的に作られたクセのあるものを「育てる」のでなく、
自然の厳しい環境において「育つ」のを待てるようになるのではないか、と思います。
