「ふつうで十分なのに、どうして頑張らなければいけないの?」

「何のために上を目指すの?ふつうでいいじゃん。」

「そんなに頑張っちゃって大丈夫?ふつうで行こうよ。」

「うちはふつうでいいんです。上昇志向に興味ありません。」

 

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「ふつう」、振り返ってみれば昨今の日本人のメンタリティを、これほど的確に表した言葉はないでしょう。バブル崩壊後の三十年不況の中で、進歩向上の意味は見失われたが、その代わりに努力の有無にかかわらず可もなければ不可もない生活が手に入る適温社会が生まれた。進歩も成長もなくただ繰り返される終わりのない日常、その無限ループに疑いを抱かない人間にとっては最高の常春の楽園。ただし現状維持という檻の中の....

 

 日常の文脈では「普通」は、どちらかと言えば好ましいことです。

 しかし、市場経済においては違います。ある商品が「ふつう」であるということは、似たような代わりがいくらでもあるということです。市場ではありふれた商品には誰も見向きもしないか、安値でないと売れません。

 

 したがって、いくらでも代わりがいるという理由により、努力をしたことがない結果、その能力が「ふつう」である労働者の値段すなわち賃金は、実は真ん中ではなく、法律で保証された最低額なのです。「ふつう=最低」、それが経済学における「ふつう」の意味です。

 

 平成の日本は、そのような「ふつう」の人々でさえも、物質的にも自尊心においても相応に充足して生きることができた奇蹟の時代でした。それは世界史を見渡しても非常に稀なことです。なぜそれが可能だったのか?

 

 一つには、三十年不況がもたらしたデフレによって物価が漸次下落していったため、皮肉な話ですが不況下でありながら、労働者の自助努力なしに実質所得と購買力が伸びていったこと。二つには、超低金利と政策的に意図された杜撰な審査のお陰で、返済能力のない人でも高額の耐久消費財や自動車、家を超長期ローンで購入することができたことです。

 

 しかし今や、そのような「ふつう」が普通であった時代は終わろうとしています。理由はインフレと金利高です。

 昨年、欧米は数十年ぶりの物価上昇を経験しました。そして、すでにその兆しはありますが、日本もいよいよ今年からは輸入原価の上昇を通じて本格的なインフレに突入するでしょう。さらに、インフレが亢進すれば、世界の金融当局は物価上昇の暴走を防ぐために金利を上げざるを得なくなります。そうなれば「ふつう」の賃金では、物を買うのも新規のローンを組むのも難しくなり、また、ローンの利払いはかさみ、これまでのように物質と自尊心の両方を満たす普通の生活を送ることは不可能になるでしょう。

 

 近年、日本は過去三十年間賃金が上がってないと喧伝されています。三十年前の所得水準のまま2020年代のインフレと高金利の洗礼を受けるのは、ある日突然タイムトリップをするようなものです。タイムトラベラーは「ふつう」の人々。

 

 自分たちがいた過去世界では「ふつう」の賃金で普通の生活を送ることができたのに、トリップ先の未来世界では「ふつう」の自分たちの能力で稼げる「ふつう」の賃金では、何も買うことができない。本当に不条理な話です。けれども、それが市場経済の現実なのです。

 

 世界史を俯瞰してみると、インフレ、特に悪性のインフレこそがむしろ経済の常態です。古今東西、国家も民衆もインフレに悩まされ続けてきたのです。それはつまり、日本人が1990年代から三十年間にわたって経験した、物価の下落によってどんどん物が手に入りやすくなるデフレ経済は、実は歴史の中では幸福な例外であったことを意味します。

 

 よって、たしかに「ふつう」が普通でなくなるのは残念なことです。しかし、歴史の必然と市場経済の大きなうねりの中では、「ふうつ」が普通でなくなる時代は、むしろ常態への避け難い復帰だと言えましょう。

 

 では、「ふつう」が普通でなくなる時代を前にして、私たちはどうすべきか?

 ここで一つ申し添えておきたいのは、「これからは学歴がないと食えない時代になるからアカデミアに入ってお勉強をしましょう」という見え透いたステマを正当化するために、この論題を持ち出した訳ではないということです。話はそんなに単純ではありません。現在、日本を代表する大企業が、黒字であるにもかかわらず粛々と数千人単位で早期退職と言う名のリストラを進めています。その対象となっているのは学歴がない人ではなく、むしろ錚々たる学歴の人たちです。その一方で、アクリルパネルの職人など、希少な職種の働き手は引っ張りだこです。

 

 直截に言わせて下さい。

「ふつう」が普通でなくなる過程において取り残されるのは、「学歴の高低」「ホワイトカラー/ブルーカラー」を問わず、既存の価値体系の中で「平均的」であること以外に取り柄がない「ふつう」の人々なのです。今やその唯一の取り柄さえもが、亢進するインフレによって従来の価値体系ごと押し流されつつある。

 

 そのような時代の到来を前にして、私たちはどうすべきか?

 答えは簡単です。子どもであろうが大人であろうが、たとえば偏差値や学歴のように相対的な評価体系に保証された自己評価を目指すのではなく、どんな国、社会、文化、時代、経済、価値体系であろうとも価値が減じることがない「実体的能力」を一つでも多く身に付けることです。つまり、「本物」になる。普遍的に必要なものに対しては、人はたとえどんなインフレ下でもお金を払うものだから。

 

 20世紀後半を象徴する大量生産、大量消費、相対的価値の時代は終焉を迎えつつあります。人々もそろそろ、普遍を日常に無縁な高尚な概念としてではなく、個人の人生観や教育の目標として捉えるべき時機に差し掛かりつつあるのではないでしょうか?