子供の頃、じゃんけんをする前に腕をねじって両手を組み合わせ、小さな穴からのぞいて勝ち手を占った経験は誰にでもあると思います。

 今、同じように腕をねじって両手を組み合わせ、それを胸元に置いてください。次に、他の人にランダムに十本の指のいずれかを指差してもらい、指示された指を動かしてみてください。

 

 どうなるでしょうか?

 

 そうです、思ってもいない指が動いてしまったり、動かすのに時間がかかったりと、慣れ親しんだ自分の指であるにも関わらず、普段とは異なった状況に置かれるだけで思い通りには動かなくなります。

 

 これには理由があります。それは、普段の手の位置と目で見たときの位置が左右異なっている上に、捻られることによって前後の感覚も逆転しているため、私たちの視覚と運動神経の連動が一時的に混乱をきたしてしまったのです。

 

 この一例を、単なる感覚の錯誤かと、一言で済ませてしまってよいか?

 この事例は、私たちは自分の指を少し動かすという単純な動作でさえ、実際には完全に掌握していないということを示しています。よく考えてみれば、それは当然です。他の動物と違って、私たち人間は生まれたときは目も見えず、歩くどころか四肢さえ満足に動かすことができない無力な存在です。それが、幼児期を経て、徐々に自分の身体の使い方を学んでいくのです。

 

 デカルトが言うように、精神を本当の自分の核として定義するのはやぶさかではないにしても、その精神としての「私」は、実際には脳髄を介して自分自身に直結した自分の肉体をすべて掌握しているわけではない。

 

 言い換えるならば、自分の肉体のうち、本当に自分のものであると言えるのは、意識のコントロール下にある部分だけであって、意識でコントロールできない部分は、たとえ「自分の」という形容詞が付いていても自分に属していない外の領域にある「物体」なのです(たとえば、ベッドに革ベルトでくくりつけられて、微動だにできない状態で一生を過ごさなければならない時、動かせない手足は自分の手足とは呼べず、どんなに精神は自由だといっても虚しいだけです)。

 

 

 私たち演奏家や、スポーツ選手は、はっきりと自覚はしていないにしても、毎日のように自分の肉体を自分の思い通りにならない物体として経験しています。一般人の日常生活においては、自分の身体が思い通りにならないような場面は皆無です。むしろ、産業テクノロジーはどんな不器用な人間でもほとんど負荷を感じずに済むように、私たちの日常生活を便利にする方向に付加価値を見出してきました。

 

 しかし、その安逸な日常生活を一歩外へ踏み出した、特殊な動作が要求される外部の世界においては、私たちは自分の身体を思い通りにならない物体として経験するのです。演奏家にとって十本の指は、どんな音楽でも奏でることのできる魔法の杖であるどころか、決して思い通りには動いてくれない不正確でうすのろなハンマーのようなものです。

 

 この指の不思議なところは、簡単な曲では魔法の杖のように言うことを聞いてくれるに、あるレベルを超えると全く同じ指であるにもかかわらず、さび付いたハンマーのように頑固で不正確になって、私たちの前に立ちふさがることです。

 

 ここでは、コントロールできない自分の身体は「自分」ではないという話をしていますが、そうすると、前半の議論の結果、肉体は代替可能なパーツであって、そもそも「自分」の不可欠な構成要素ではない、脳と精神こそが「私」の必要十分条件であると結論されたではないかという意見が当然出てきます。

 

 まさにその通りです。

 そこでさっそく、思い通りにはならない肉体を捨てて、脳へと私たちのアイデンティティの足場を移しましょう。