21世紀に入って早10年が経とうとしていますが、21世紀の都市生活者が直面しているのは、地球温暖化や経済危機といった外部にある問題ではなく、自我の崩落というもっと深刻な精神の危機ではないでしょうか?

 

 洋の東西、老若男女を問わず、都市生活者は自己実現や自分探しという見果てぬ夢を追いかけさまよい、夢破れて傷つき、疲れ、病み、もしくは誤魔化して日々を送っています。

 

 21世紀に入ってから、秋葉原の事件のようにネットやゲーム、過度な情報によって万能感を煽るだけ煽られた末に、現実によっていとも簡単に挫折させられた根拠のない肥大化した自己意識が引き起こす惨事が後を絶たないのは偶然ではありません。年を追うごとに、中央線や横浜線が「人身事故」で遅延する頻度が確実に増えているのはなぜでしょう。

 

 現代人は病んでいると、誰もが簡単に口にします。

 しかし、病んでいるのならばそれは病気であり、病気ならなば治せるはずです。ところが、精神医療や精神薬が日進月歩で進歩しているにもかかわらず、21世紀早々にむしろ病状は病膏肓に入るといった末期症状を呈しています。ですから、これは、もう病んでいるとかいう一時的な問題ではなく、現代人の自我構造自体に欠陥があるのではなかろうかと、筆者は疑っているのです。

 

 いや、どう考えても欠陥はあります。

 

 というのは、「私は何者なのか」という命題を追い求め、その「何者」の部分を充足させようと日々一生懸命、勉強やスポーツや芸術活動に打ち込み、社会で働くのが現代人の人生の道程と言えますが(これだけSNSやブログやプロフが老若男女に浸透し、何千万もの人々が毎日のようなに自分が何者なのかを一生懸命他人にアピールしようとしている事実はそれを裏付けています)、その主語に「私」というゼロ記号を持ってきた上で、述語にあたる「何者」を充足させようとしても、主語が空虚である限り、永遠に満たされるはずがないのです。

 

 つまるところ、デカルトによって人類に与えられ、現代にまで受け継がれている近代的自己意識は、問題設定自体がそもそも誤っている。

 ゆえに、その欠陥から自我や精神にまつわる様々な問題が次から次に生じてくるはずだ。筆者は、そう考えているのです。

 

 さて、前説が非常に長くなりましたが、ここからが本論です。

 私たちは、もう一度謙虚になって、人間としての出発点から考え直すべきなのです。

 

 人間の赤ん坊は、目も見えない無力な状態で生まれ、少しずつ身体のコントロールの仕方を身につけていきます。身体の使い方だけではありません、文字による学習を通じて脳の使い方を学びます。社会生活を通じて精神のコントロールの仕方を学びます。長じれば、関心に応じてスポーツや器楽演奏などの分野で、より高度な身体・脳・精神のコントロールを身につけることでしょう。中世の日本人は本当に良い言葉を遺しました。まさに心技体です。

 

 これらのコントロールは、全て後天的に学ばれたものです。

 人間は生まれたときには、思い通りにコントロールできる領域を持たずとも、生後の訓練を通じて身体・脳・精神を非常に高度なレベルまでコントロールできるようになるのです。

 

 そして、筆者は、個人がそのコントロールできる領域において経験する解放感・自由感・万能感こそが、本当の意味での、そして21世紀の文脈における自分らしさの根拠となるのではなかろうかと希望を持っているのです。少なくとも私は、演奏しているときの自由闊達さの中に自分本来の喜びを見出しますし、日々技術が進歩しコントロールできる領域が拡がると自我の拡充を感じます。

 

 筆者の個人的な経験はさておき、コントロールの獲得とは能力の獲得です。能力領域が拡大していくことによって、自己を発揮できる領域が広がり、「自我が確立される=人間となる」とするならば、私たちは生まれたときは人間でなく、心技体のコントロール能力を身につけることによってようやく「人間」となるのです。

 

 もちろん、「能力とは無関係に私は私」だと20世紀的に相変わらず主張しても結構ですが、そうすると議論は振り出しに戻ってしまうし、貧弱な能力しか行使できない自我がどれほど惨めで虚しいものかは、その本人がよく分かっていることでしょう。

 

 自分自身の精神ですらも満足にコントロールできない人を、法の下に人間と認めるのはやぶさかではありませんが、本当の意味での人間性がどこまで備わっているかは筆者には分かりません。

 

 人の一生とは、未人間のゼロから出発し、学びを通じて自らの内外の事象を徐々に把握し最終的な人間性の完成へと近づいていく道程だと、私は個人的には考えています。

 

 学びには終わりがありません。

 肉体が衰えれば、脳を使い、脳が衰えれば精神統御を洗練するというように、どこまでも発展は可能だからです。そして、「死」という未知かつ一回きりの事象を経験することによって発展は完結するのです。

 

 

 なぜ人間は他のどのような動物とも違って、無力で生まれてくるのか?

 

 それはいかなる環境に適応して生き残るためには、あらかじめプログラムされているよりも、生まれた後にその環境に対する適応法を学んだ方が有利だからです。

 他の動物はほとんど親と変りのない身体機能と、行動本能を備えて生まれてくるので、想定された環境が続く限りは繁栄しますが、環境が変ればたちまち滅びます。

 人間が瞬く間に地球上に版図を拡げたのは、どんな環境にも対応できる強靭な生命力や知能を持ったからではなく、どんな環境に対する対処法も後から学ぶことを可能とした究極の柔軟性を武器としているからです。

 

 そして、究極の柔軟性とは、心技体あらゆる側面においてゼロで生まれてくることなのです。

 

人は人間に生まれつくのではなく、

学ぶことによってようやく人間たり得る。

 

それが教育の存在意義ではないでしょうか。

 

                    (NDA106 2009年4月)