NDA Nouvelle d’ACADEMIA No. 284         January 23, 2024

Feu de Prometheus  大学共通テスト、英語難化が示唆する世界

 

 昨年、大学共通テスト(旧センター試験)の英語が53.8/100点で過去最低、先日実施された今年度試験では53.3とさらに最低を更新しました。その理由は単純です。昨年はセンター試験で定番だった発音問題や文法問題が消えて、全て英語長文になった。そして、今年はさらにその英語長文の文量が増加した。つまり、新指導要領に則り公的な一斉テストがセンター試験から共通テストに衣替えした結果、英語長文を読む能力に欠ける受験生が得点する余地はもはや一斉テストの「英語」には存在しなくなってしまったのです。

 

 皆さんもご承知のように、このような時代の到来、そしてそれに対する備えの必要性を、私は過去25年間一貫して主張してきました。よって、ここで同じ言葉は繰り返しません。けれども、四半世紀にわたる警句としてのアカデミアを終えるにあたって、この度の共通テスト英語の難化が何を意味するのか、それに具体的に言及をして締めくくりたいと思います。

まずは、2022年11月にNDAに掲載した以下の記事をご覧下さい。

 

 

【日本の大学入試は英語で決まる】

 これまでも繰り返し指摘したように、日本の大学入試は「理系/文系」「私大/国大」を問わず英語で勝負がつきます。勝負がつくと言うと語弊があるならば、英語力が最も重視されています。これを日本人は誰ひとり疑いもしませんが、世界的に見るとかなり特殊な部類に入ります。先進国の大学で、外国語力で合否が決まるのは日本ぐらいでしょう。ドイツやフランスの大学入試に英語という科目はないし、アメリカやイギリスではそもそも全てが英語です。外国語が苦手な人が多いアメリカでは、たとえ片言でもフランス語やドイツ語を話そうものなら偉業のように賞賛されます。

 

 というように、本来、高等学問を修めるのに必ずしも外国語力は必須ではないにもかかわらず、なぜか日本の大学では外国語力、特に英語力が最重視されている。その理由は、明治維新以来、日本が世界の中で置かれてきた立ち位置にあります。

 

 明治維新で中世的な文明レベルから突如として最先端の近代西洋世界に放り込まれた日本にとって、科学技術、社会制度、文化というものは一から十まで欧米諸国から学んで真似る以外にありませんでした。そこで、現在の東大を筆頭に旧帝大が、西洋文明を受容するための装置として設立されたのです。よって、日本においては「高等学問=外国語の文献の解読」という構図は避け難い運命であった。

 その構図において戦前は、科学はドイツ、文化はフランスに習えということで、英語は日陰者でしたが、戦後アメリカが世界の中心国になると、外来の知識情報のほとんどが英語を経由することになりました。その結果、英語が日本の大学入試の必須条件となったのです。つまり、「大学教育=高等学問=英語の読解→英語力が必要」ということです。

 

 そして、この構図は現在も変わりません。依然として日本には日本語で発信できるオリジナルな高等学問は育っていないので、高等学問に取り組む際には英語を参照しなければならないからです。むしろ近年は、亢進する世界の一体化により、経済活動や社会活動のレベルにおいてさえも英語力が求められています。よって、日本がいつまでも世界文明における周回遅れのランナーであるという立ち位置にある限り、日本の大学は未来永劫、英語力を最重視しなければならないという数奇な運命にあるのです。

 

 ところで何が数奇か?

 欧米列強の帝国主義が吹き荒れアジア・アフリカ諸国が全て植民地化された時代、日本だけが世界の最東端にあるという地政学的な僥倖により植民地化を免れました。つまり、中程度の文明国として伝統的な文化と言語を保つことが許された。それは確かに日本人にとっては幸いなことでした。しかし、一体化した現代世界においては、その維持された伝統、言語、アイデンティティがグローバル化の障害となっているのも事実です。

 

 

 

 

 一方、インドを筆頭に、フィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポール、パキスタン、バングラディシュ、アフリカ諸国は欧米の植民地とされた結果、宗主国の言語、つまり英語なりフランス語なりオランダ語を公用語として強制されました。当時は塗炭の苦しみを味わった恨みはあるものの、宗主国が押し付けた文明語のお陰で、今日において彼らは外国ではなく自国の公用語で直接に高等学問にアクセスできるというのが圧倒的な強みです。

 

 それに対して、高等学問にアクセスするためには、その前に英語を学ばなければならない日本人は、今後も高等学問に対して傍観者であり続ける。それが数奇な運命だと言うのです。もちろん、歴史は起こってしまったことであり、どちらの方が良く、どちらの方が悪いなどとは評価できない。ただ一つ言えるのは、英語の公用語化でも行われない限り、これからも日本の大学教育は英語による原典講読から脱却できないということです。そして、英語は大学入試の中心に鎮座し続けるでしょう。

 

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本題に戻ります。

以上に考察した歴史的背景により、日本の大学入試は英語力が中心的な選抜基準となっています。そのため一部の例外を除けば、理系・文系、私大・国大を問わず英語が傾斜配点です。そこで、英語ができれば他の科目が弱くてもカバーできるし、英語ができなければ、たとえそれ以外の科目が得意でも合格点をそろえられないという結果になるのです。

 

 単に英語力と言っても、問題はその中身です。一昔前は定番であった、クイズのような英文法問題は、最近は影が薄くなりました。以前なら英語長文が苦手でも、文法問題を完答して点をそろえ、長文の方は知っている単語をつないで文意を「想像」して勘で解答し、ギリギリの得点で合格に滑り込むというやり方が通用しましたが、長文が主体となった現在ではその作戦は通用しません。

 

 さらにその長文ですが、昔の英語長文のようにただの与太話ではありません。現代社会は複雑な情報複合体です。その社会の複雑さを反映して、今日の英語ネイティヴが書いた文章もやはり難解、もしくは理解するために高度な教養を必要とします。つまり、単に日本語話者であるというだけでは、昨今の大学入試の現代文が理解できないのと同じように、英文法と英単語、熟語を暗記しただけでは、現代の英長文は理解できないのです。英語の文章を言語的に読めるのと、内容が「読める」のとは同義ではないということです。

 

それにもかかわらず、いまだに高校や予備校の授業は文法と熟語の解説止まりです。長文の授業と言えば、ただ和訳を読み上げるだけ。なぜ原文がその和訳に変換されるのか、明示的な解説はありません。もし、きちんと全ての文を構文分析してくれる英語の教師がいたら奇蹟です。さらなる問題は、万が一構文が読み取れて言語的に日本語に直すことができても、それでも真の英文解釈には不十分だということです。言語能力とは別に深い教養が無ければ、たとえ和訳を読んでも筆者が何を言っているのかが理解できないからです。

 

 つまり、英語圏のインテリが書いた知的な文章を理解するには言語的な知識だけではなく、現代の教養、英語文化圏の人間の発想、レトリック、アレゴリー、ユーモア、スタイル、歴史に関する深い理解が要求されるのです。はたして、そのような文化的要素、しかも最新の教養を学校や予備校で学ぶことができるでしょうか?否、だからせっかく懸命に努力をしても報われないのです。もちろん、それは本人たちの責任ではありません。あくまで、現代の大学入試のクオリティに追いついてない教える側の問題です。

 

同封した英語の過去問をご覧ください。

まず、最も難しいと英語入試と言われる慶応大の法学部。英文をお読みいただければ分かるように、大変難しい。私自身も、もし自分が受験会場で受ける立場だったら気分のいいものではありません。その難しさは何に由来するか?単語自体も目が眩むような難しさですが、そのような非日常的な単語が多用されているのは、文章自体が非日常的で難解な内容を取り扱っているからです。日本語で読んでもピンとこない日常から乖離した文章を、英語で理解するというのは相当ハードルの高い行為です。

 

 

 

 また、設問も単純に暗記した知識を問うものではなく、言語表現を抽象的な論理式に還元した上で複合的な演算を行い、その結果を再び言語に戻して解答するという、論理思考力の精度を測るものとなっています。これも、母国語である日本語においてさえも決して容易ではないということを考えると、ましてや外国語である英語で行うのは困難だと言えるでしょう。

 

次に中堅校の雄である中央大の法学部の問題ですが、やや組みしやすそうに見えることを除けば、これも慶応と同じ方向性を志向しています。実際に解いてみれば分かりますが、単なる暗記と単語をつないだだけの英文読解だけでは、150点中30 〜40点しか得点できません。現代の難関大の英語入試の本質が以上のようであるにもかかわらず、旧態然として、高校や予備校の英語の授業は文法とイディオムの解説が主体です。長文読解の授業も、漫然と本文と訳文の読み合わせをするだけです。もう一度、慶応大や中央大の問題と学校の教科書や予備校のテキストを見比べて下さい。教科書やテキストによる学習で、本当にこの問題ができるようになると思えますか?

 

万が一、何かの僥倖で英文が読めるようになったとしましょう。ただし、それはあくまで言語レベルの話です。しかし、それは大学入試では当たり前の一歩にすぎません。その先で問われるのは、論理レベルでの思考力です。つまり、現代大学入試においては前提にすら足りないレベルの英語力を、いまだに高校英語は最終目標に置いている。しかも、大学入試が求める英語力のボトムと、高校英語で達成可能な英語力のトップの間にはかなり懸隔がある。いや、懸隔があるというよりは質自体が異なる、似て非なるものと言った方が良いでしょう。

 

 

以上が、たとえ地頭のいい子たちが勤勉に高校英語に励んでも、一流大の英語入試に手も足も出ない理由です。喩えて言うなら、入試の課題が高速のジャズアドリブ演奏なのに、クラシックの練習曲を繰り返して入試対策をしているつもりでは、本番では歯が立たない。そういうことです。まず入試でどんな能力が求められているのか、それを知った上で受験勉強に着手しましょう。

 

 最後に、専修大の問題を見て下さい。

確かに慶応大や中央大の問題に比べると解きやすそうに見えますが、だからと言って誰にでも解けるようなレベルではありません。時間はたった60分です。果たして並の英語力の高校生にこれが解けるだろうか、ましてや中1の英語でつまずいたり、サボったりしている人間にこれができるのか?私は、個人的には不可能だとみなしています。率直に言って、中学英語で脱落した場合、受験という形での大学進学(Fランクは除く)は、事実上その時点で終わったと考えるのが現実的でしょう。世間では「せめてMARCH、最悪でも日東駒専」と当たり前のように言いますが、大学入試、そんなに甘いものではないのです。

 

(2022年11月NDA270)

 

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 以上を踏まえて、大学共通テスト英語の長文化による難化が具体的に何を意味するのかを申し上げます。

 

 これまで進学校の教師たちは判を押したようにこう言い続けてきました。

 曰く、「大学受験とは、センター試験対策に重点を置いて国公立大を志望することだ。私大はセンター利用で受験できるのだから、私大対策をする必要ない。英数国理社をまんべんなく勉強してセンター試験(一次)で高得点を取り、横国大や学芸大のように一次試験の比率の高い大学や、二次試験に英語がない大学を受ければいいのだから、理系文系関係なく学校の言うこときいて数学、理科と古典漢文をしっかりと勉強しなさい。英語は単語と文法選択問題だけでいい。」

 

 たしかに正論です。彼らの、国公立大の方が就職に有利だという主張を支える事実は存在しないし、センター試験利用で私大に合格するのは東大受験者レベルでようやく明治大が取れるという程度の非現実的なオプションであるし、私大対策をやらずにセンター試験一本槍で突き進んだらセンターで失敗した場合に後がないなど、いくらでも突っ込みどころはあるにしても、万が一首尾よく運べばそのロジックも機能しなくもないという点で。

 

 

 ここでやや話は逸れますが、なぜ彼らは国公立大の方が就職に有利だというような半ばデマに近い言説を振り回してまでも、進学指導を過度に国公立大に傾斜させて来たのかについて言及しておきます。1980年代から90年代にかけて、代ゼミ、代理店、そしてマスコミの仕掛けで、早慶を筆頭に「MARCH」「日東駒専」「大東亜帝国」というネーミングで上から下まで私大のブランド化に奏功、空前の私大受験ブームが起こっていたことを思えば、それはむしろ不自然でさえあります。

 

 理由は三つあります。

 2000年代初頭、ゆとり教育の中で、進学実績において都立高校が私学の遥か後塵を拝するようになった状況に危機感を抱いた都教育委員会は、日比谷、西、国立を筆頭に進路指導重点校なるものを設け失地の回復に乗り出しました。その成果の目安となったのが東大の合格者です。東大合格者を増やすためには、東大受験者を増やさなくてはならない。東大受験者を増やすためには国立大志願者を増やさなくてはならない。つまり、そういうことです。

 

 次に、生徒管理の都合です。大学受験のことだけを考えるならば、私大専願者は文系なら「英国社」、理系なら「英数理」さえ勉強していれば済みます。さらに慶応は国語さえないので、受験勉強は実質二科目だけ。もしも、就職には早慶の方が圧倒的に強くて、さらに慶応は英語ともう一科目だけで用が足りるという事実が生徒にばれてしまったら、現金な生徒たちは古文漢文をはじめ、理科や数学などに取り組まなくなります。それでは高校の授業、ひいては生徒管理が成り立ちません。一方で、国公立大志望を刷り込めば、5教科7科目のセンター試験の受験が前提となるので、生徒たちは理系文系にかかわらず自ら進んで英数国理社の全科目に万遍なく注力することになります。それは教師からすればまさに理想的な状況です。つまり、そういうことなのです。

 

 最後は、実践的な問題です。私大対策の中心は英語、なかんずく長文読解。けれども、実はあらゆる科目の中で英語長文の学習が一番難しい。開成や筑駒の生徒たちでも、理数は全国レベルなのに英語が出来ないのが泣きどころというのはよくある話です。それはなぜか? 塾業界では昔から「他の科目の講師はなんとかなるが、生徒の得点を上げられる英語の講師を見つけるのは難しい」と言われています。それは、数学・理科・社会は答えと解法が可視化されてテキストに書いてあるので、最悪の場合、講師がそれを読み上げれば授業が成立するのに対して、英語はそうはいかないからです。辛うじて文法は客観性があるように思われますが、それさえも「なぜそうなる?」の部分が曖昧でこじつけに近い。ましてや、長文読解には何ら客観的アプローチが確立されていないので、結局は生徒本人の語学センス頼みです。

 つまり、客観的な指導が難しい英語長文力が問われてしまう私大よりも、英語は単語と文法選択問題の暗記でお茶を濁して他の諸科目の総合力で勝負できる国公立大の方が、集団的な受験指導がしやすいという訳です。

 

 

 それでは、話を戻して結論を述べたいと思います。

 大学共通テストの英語が超長文化したことから導かれる具体的な地殻変動とは何か?それは、「英語に注力しなくても国公立大なら受かる」という進学校の従来のロジックが成立しなくなった事です。これまでも私大受験には英長文力が必須でしたが、これからは国公立大受験の入口でもそれが要求されるのです。つまり、英長文が読めない人間や、苦手を逃げ口上に英語学習に取り組もうとしない人間が難関大学に進学する途はもはや存在しないということです。そして、大学に入れるかどうかは、どの高校に通っているかどうかではなく、英語長文を読む能力があるかどうかで決まるのです。いかなる名門校にも、教養的な英長文を読めるようにするための可視化された指導法は存在しないからです。

 

 けれども、悲観する必要はありません。

 日本経済の地盤沈下と軌を一にして、右へ倣えで誰もが大学進学を目指す時代は間もなく終わります。経済構造の転換によりホワイトカラーの需要が逓減するからです。そして、大学はホワイトカラーの大量生産装置としての役目を終え、高等学問を志す人間、高等専門教育を必要とする職業を目指す人間のための教育機関という本来の姿へ再び回帰するのです。そうすれば、好きでもない英語に無理に取り組んで大学進学を目指す必要もなくなるでしょう。その過程で、義務教育の補習レベルの大学や、本物の専門教育を提供できない大学は淘汰されます。過去半世紀以上に及んだ国民を挙げての学歴信仰が冷めれば、そのピラミッドの川下に当たる高校受験、中学受験も低調になります。そうなれば、もちろんそこに寄生している受験産業は用済みです。だれもが学力や偏差値で輪切りにされたホワイトカラーを目指すのではなく、自分に向いていること、出来ること、やりたいことを職業にする、そんな時代が来るのです。

 

 

 

 その先には一体何が待っているのでしょうか?それは高いレベルにおける静かな競争と、社会の二極化です。ブランドとしての学歴の時代が終われば、大学入試の倍率は当然低下します。しかし、それでもなお大学進学を目指そうとするのは志が高く優秀な人間です。よって、ブームは冷めても本物同士の高いレベルの競争は残るのです。そして、その静かな競争の勝者が、名ばかりの学歴エリートではなく本物のエリートとして日本を牽引して行く。戦前の日本や現在の諸外国のように。

 

 戦後長きにわたって、日本の大学は大量のホワイトカラーを輩出することで経済における民主主義を押し進める役割を担ってきました。しかし、その平等社会が国際競争力を失っている今、日本は科学や経済、学問を牽引できる本物のエリートを必要としています。そのために教育行政は大学の構造転換を急ピッチで進めているのです。その第一歩が、機械的な努力や点数の辻褄合わせだけで大学に入ろうとする人間を門前払いすることを意図した入試改革であり、英語の難化はその露払いであると私は考えています。これは終わりではなく、始まりにすぎません。

 

 以上をもって、四半世紀にわたる「処世的な」警鐘と警句の締めくくりと致します。もはや、そのような言説の射程が届く時間帯は過ぎました。見えないところで既に時代は記号的知性から総合的知性へと、人間観それ自体の変容に入っているのです。真の知性とは、エリートになるためのものでも、マウントを取るためのものでも、ひけらかすものでもなく、人生という自分に与えられた有限な時間を最大限に人間的に生きるための知恵であるという。