中学生の学習教育は、まさに「脳」との戦いです。それはヒトの脳は15 ~ 16才までにほぼ完成するため、中学生の年齢というのは発達的に見て、脳が完成形へ向けて最後の爆発的な変化を経験する時期に当たるからです。まず12才頃から急激に知能が高くなって自我が発達する、その結果、他人の言うことを聞かなくなる一方、大脳皮質の成長を劇的に促進するために脳内で大量のホルモンが分泌されて情緒が不安定になります。

 また、脳が出来上がってチャンネルが固定化する前になるべく多様な能力を獲得しておこうと、この時期の脳内では様々な神経結合が試みられます。しかし、その中には間違った結合や効率の悪い結合が多々含まれるため、昨日まで出来たことが急に出来なくなったり、一時的に精度が下がったりということが起こるのです。

 さらに脳の成長の閉店間際、個体になるべく多くの経験を積ませるため、危険に対する脳内のリミッターが一時的に解除されます。理性的になって危険を恐れていると、新しい経験を積むための一歩が踏み出せないからです。だからこそ中学生は、向こう見ずなことをしがちな年齢なのです。昔は中学生が非行に走りやすいのは中二の夏休みだと言われていましたが、それも脳科学的に見ると実証的に理解できます。

 危険に対する脳内のリミッターが解除されるということは、「これをすると危ないから止めておこう」とか「これをしないと後で大変だ」という、因果関係を推論する回路が機能しないということを意味します。それが、「今勉強しないと、後で取り返しがつかないことになるよ」という正論を大人が言っても、聞く耳をもたないことにつながるのです。中学生の脳内では、そのごく当たり前の因果を理解するための回路が完全に切れているからです。

 以上を踏まえると、中学時代というのは脳が発達する途中の不安定な過渡期であり、実は最も「勉強」に不向きな時間帯だと言えるでしょう。ゆえに本来この時期の理想的な教育は、発達中の自我の赴くままにトライ・アンド・エラーで広範囲な経験を積ませることなのです。


 ところが日本の学校制度においては、この最も「勉強」に不向きな時期に、詰め込み型かつ管理型で最も不適切なタイプの学習が、制度的(=高校受験)に要求されています。だから「中学生」は難しいのです。そもそも制度としては、中学生の時期は不安定だからこそ、戦後ベビーブームで子供が溢れかえっていた時代、その不安定な何百万人もの未成年が野放しになって社会不安を起こさないよう、学校に縛り付けて一斉に管理するための方策として、内申点制度と学習内容の暗記に基づく高校受験という、管理教育の際たるものが導入されたという経緯があります。ちなみに、中学生の部活動が強制化されたのも、昭和40〜50年代に少年非行が社会問題となった時に、中学生を放課後と日曜日も学校に縛り付けて野放しにしないためでした。

 それはさておき、脳が勉強に最も不適な時期に、管理型・暗記型という、その脳にとって最も不適切なタイプの「勉強」を、制度ゆえにしなければならないので、日本の中学生は実に難しい。中学生の脳を正しく理解している教育者なら、彼らの脳の特性と受験制度の板挟みになってしまいます。

 さらに問題を複雑にしているのは、中学生個人間の発達のスピードの違いです。中2の夏にはほぼ大人の脳の完成形に近づく子もいれば、高校受験間近になっても脳が幼いままの子もいる。さらに生まれ持った性質として、脳の激変期でも情緒が安定している子もいれば、人の言うことに耳を貸さないという形で自我が完成する子もいる(それも個性ですが)。

 つまり、同じ中学生と言っても、一人一人、脳の発達段階とパーソナリティが千差万別なので、一括りに同じような指導はできないし、すべきでもない。ゆえに、授業自体は一斉に同じことやらざるを得ないにしても、誰にいつどのような指導をし、どんな言葉をかけるのか、それは個々人の脳と人格の発達の段階を見ながら慎重に選択しなければならないのです。     

 

 そのタイミングを間違えると、たとえ本人にポテンシャルがあったとしても、それが発揮される前に挫折したり、反対に慢心したりして、せっかくの素材が花開くことなく終わってしまいます。そのような実例を、私はこれまで数多も目にしてきました。誤解せずに聞いて欲しいのですが、盲導犬や競走馬の訓練、サッカー選手の養成と同じで、中学生の学習指導もタイミングとバランスがすべてです。

難しすぎてもいけない、簡単すぎてもいけない
多すぎてもいけない、少なすぎてもいけない

早すぎてもいけない、遅すぎてもいけない

 そして、そのタイミングとバランスは同じ講師が生徒一人一人を長い時間をかけて気長に見守ることで、初めて見極めることが可能となるのです。(2018年10月記を初出)