他人をくさしてばかりではフェアではないので、自分の経験をお話しします。

 

 フランスに留学したときのことですが、登校初日に練習室から聞こえてくる他の学生たちの演奏を耳にして、まず初めに感動、次に愕然、最後に絶望しました。彼らの演奏は本物の音楽で、自分の演奏は所詮「音楽のようなもの」にすぎなかったからです。

 

 何を以て音楽的と為すのかは非常に難しい問題ですが、明らかに違う点を指摘するのは可能です。

 

 まず「p」と「f」の音量差が、非常にはっきりしている。一般的に日本人の演奏はいつも「mp」か「mf「」です。

 次に「クレッシェンド」と「デクレッシェンド」の落差が非常に大きい。日本人はほとんど抑揚がありません。

 さらに、アクセント記号の有無が演奏を聴いただけで聞き取れる。日本人の演奏だと、音符にテヌートが付いているのか、スタッカートが付いているのか、何も付いていないのか、原曲の譜面を見ないと分からないことが多いのです。

 最後に楽句の終わりの音の処理が非常に丁寧である。一つ一つの楽句との別れを名残惜しむがごとく。つまり、日本人の演奏は抑揚がなく一本調子なのに対して、彼らはまさに音で語られた言葉であるかのようである。

 

 以上のような問題は、たとえ真面目に毎日10時間練習をしたとしても、心の中で音楽をなめているようでは決して改善されません。たとえば、「p」と「f」の音量差を聴き手に分かるように表現するためには、演奏者が感覚的に自分がこれでいいだろうと思っていた音量差の10倍近くは必要です。

 

 これを日常的にできるようにするためには、自分の意識を相当変えないといけません。「p」を見るたびに音量をこれまでの3分の1に落とし、「f」を見るたびに3倍に上げるということを一つとっても、これまでの自分の全演奏習慣を覆すことになるだけに吐気を催す苦痛です。

 

 1日10時間の練習というのは、心のスイッチはオフにして機械的にするだけならば何の苦でもありません。だれにでもできます。一方で、たとえほんの10分間でも、それまでの自分の標準を全否定するような練習こそ苦しいのだし、だからこそ役に立つのです。しかし、心のどこかにこれでいいだろうとなめているところがあると、そういう心理的に苦しい練習は絶対に出来ないのです。

 

 そのような次第で、フランス人の演奏を聞いて私が気が付いたのは、自分がいかに音楽をなめているかということでした。自分としては真面目に取り組んでいたつもりでも、結局は無意識のうちにこの程度の表現でいいだろうと音楽をなめていたのです。そして、それがどんなに練習しても自分の演奏の凡庸さが改善されない理由でした。

 

 その後も20年以上にわたって、気が付いては直し、直しては気が付きのいたちごっこが続いています。

 

 以前の下手くそだった自分、壁にぶつかっていた自分を思い返してみると、一つ確かに言えるのは、その原因は練習が足りなかったとか、やり方が間違っていたとか、先生が悪かったという各論ではなく心の底でなめていたという根本に必ず行き当たるということです。

 

 それは年齢を重ねた今日でも変わりません。

 昨日までの自分がいかに音楽をなめていたのか、そして人生をなめていたのかを毎日のように痛感し、それを何とも思っていなかった、いやそれどころか、できているつもりでいた自分を恥じる日々です。

 

 そして、おそらくはこれからも進歩と向上が続く限り、明日は今日を思って恥じるでしょう。むしろ、そうであり続けたいと思います。

 

 「日々是精進」とか「芸道にこれで良しは無し」という古人の言葉の意味、言い古されてほとんど摩滅しかかっていますが、遅ればせながらようやく身に染みて分かってきました。