この項を閉じるにあたって、いくつかの補足をしておきます。

 

 【リアルタイムの内観は本当に必要か?】

 ある行為を構成する身体機能と認知機能のすべてを把握してコントロールすればミスが起こらないのは分かるが、一体どれだけの人間がそれをやっているのか、たいていのことはそこまで神経質にならなくてもできてしまうのではないか?

 

 たしかにその通りです。

 バイクにしてもピアノにしても、すべてのタスクを意識していなくても、場合によってはボーッとしていてさえもそれなりに事は運びます。

 

 人間は非常に上手くできているのです。

 必須タスク10のうち7しか意識していなくても、足りない3はバックグラウンドの能力で代補したり、残りの7を総動員してカバーできます。


 また、タスクレベル自体が低ければ、自分の中で何が起こっているのか意識しなくても、既存の身体機能と認知機能を使うだけで、考え無しでもできてしまいます。

 

 しかし、そこに落とし穴があります。

 演奏でもスポーツでも勉強でも、あるレベルまではなんとなくやっているだけで、それなりにできてしまう。

 だから、自分の中で起こっている現象に耳を傾け、それを整えてコントロールするという反省的思考を行為との間に媒介することの必要性を感じる事もなければ、習慣化することもないまま先へ進んでしまいがちです。

 

 ところが、あるレベルを超えると、同時に処理すべきタスクの数が一挙に増え、かつ複雑になるので、反省的思考をリアルタイムで使う習慣が身に付いていないと情報処理が追いつかなくなったり、処理不全が起きて、ミスを頻発するようになってしまいます。

 

 かといって、タスクが単純な段階ならまだしも、そこまで進んでしまったら、目の前のやることが多すぎて、反省的思考をリアルタイムで使うことに意識を集中することは、もはやできなくなります。


 また、ミスやスランプの原因がそこにあるのだと的確にコーチングしてくれる人がいなければ、結局はお手上げとなり先へは進めません。

 

 だからこそ、誰にでもできる簡単な内容をやっているうちに、そして、内容が簡単であるからこそ、解答するまでのプロセスに気を配って常に正しく解答できるように心を整えなさい、頭の中を怠けるな、何をどれだけ練習するかよりも練習の質が大切なのだと、私は常々言うのです。

 

 それらの言葉の意図はすべて、タスクレベルが低いうちに反省的思考をリアルタイムで使う習慣を身につけるべきだ、その一点に集約されているのです。

 

 【リアルタイムの内観は勉強にも必要か?】

 スポーツや演奏のように、一瞬たりとも静止のない行為においてはマルチタスク意識が有効かもしれないが、紙の上で静止している情報を自分のペースで処理していけば済む「勉強」には縁がないのではないか?

 

 たしかにその通りです。

 だからこそ、動いている情報を扱うスポーツや演奏に比べれば、静止している情報を扱う「勉強」は遥かに簡単だし、スポーツや演奏で動いている情報を処理できる非認知スキルを養っておけば、「勉強」は楽勝だと言っているのです。

 

 ただ、そうは言っても「勉強」だってシングル・タスクなわけでありません。


 もちろん「勉強」においては、情報は紙の上で静止しているのですが、小中高と年次が上がるにつれて、また、高校受験から大学受験へとレベルアップするにつれて、「Q→A」の問題Qが解答Aに至るまでにいくつものフィルターを通すことが必要となります。

 

 よって、スポーツや演奏のように同時に複数の情報を処理する必要はないにしても、解答に至るまでに通すべき全フィルターを意識していなければ、「勉強」においてもミスや誤答が誘発されるのです。

 

 そのあたりのメカニズムについてはこちらの記事をご覧下さい。

※  「良問と悪問」

https://ameblo.jp/edc-academia/entry-12423849803.html?frm=theme

 

 

 冒頭の問題提起に答える時がきました。


「ミスを無くすとは、メンタルコントロールであり全人格的問題である」という命題は、精神論にすぎないのだろうか?

 

 たしかに、一般の文脈における「メンタル」や「人格」は、どうとでも受け取れる玉虫色の言葉であり、具体的なソリューションを用意していない無責任なコーチングにおいて、勝てない原因を選手の根性と精神の問題に帰して、その無策を誤摩化すために濫用されがちなのは事実です。

 

 一方で、私が言う「メンタル」「人格」とは、あくまで自らの身体機能と知覚機能を統合してコントロールする認知システムとしての「意識」のことです。

 

 そこでは「飽きっぽい」とか「粘り強い」とか、「思いやりがある」とか「意地悪だ」とか、そういう倫理道徳に属する資質は一切考慮されていません。


 極論をすれば、善良な人間でも認知システムが貧弱ならば、重大なミスを犯して周囲を巻き添えにするし、腹黒い人間でも万全の認知システムを備えていれば、タスクにおいては信頼に足る責務を果たしてくれる。

 

 ある行為をミスなくできるようにするには、自分というOSをその行為が要求するマルチタスクを処理できる認知システムとしての「意識」へと最適化するしかない。

 それを日常言語で「メンタルコントロール」「全人格的問題」と言い表しているのです。

 

 よって、私が「ミスを無くすとはメンタルコントロールであり全人格的問題である」と言うとき、それは空疎な精神論ではなく、徹頭徹尾、認知心理学と身体機能の生理学の文脈上での発言を意図しているのです。

 

 それでもあえて言えば、物事をミスなく完遂するためには、自分の意識改革をするしかないと悟るのは、結局は人格の力なのかもしれませんが。