ようやく期末テストが終わりました。

 

 高校受験のために内申点は制度的に必要だし、定期テストに捧げる子どもたちの努力自体はとても尊いのですが、本質的には定期テストとは子どもの進歩成長のためではなく、あくまで学校による成績評価の算出を目的としているだけなので、そのような事務的行事のために真に必要な勉強が一ヶ月も足止めを食うというのには忸怩たる思いがあります。

 

 それはさておき、中3のテスト明け一発目の英語の授業は、ディクテーションとシャドーイングを組み合わせた、英語リスニングの実践的トレーニングでした。

 

 それはどういうものかというと、都立高校入試のリスニング問題の全会話を一文一文聞かせ、当てられた生徒には口頭で言わせ(シャドーイング)、それ以外の生徒は聞こえたものを紙に書く(ディクテーション)ということを何周もローテションして行き、集団授業でありながら全員にシャドーイングをさせるというトレーニングです。

 

 ただ、聞き取り能力には個人差があります。

 そこで、自分の耳でネイティヴの英語が聞き取れたという経験を、誰もが必ずできるようにするために、音程を補正する特殊なアプリケーションを使って、その生徒が聞き取れるまで段階的にスピードを落としていきます(普通はスピードを下げると音程も下がる)。通常は80%前後まで落とせば十分ですが、40%まで落とせば、どんなにリスニング力のない人でも必ず聞き取れます。

 

 それを実際にやってみて、やはりと思うことがいくつかありました。

 まず、テスト問題自体には正しく回答している生徒でも、リスニング全文を正しく聞き取れている訳ではないのです。

 

 平成13年の問題ですから、非常にシンプルな文ばかりなのですが、それでも一文全体を正しく聞き取っているというよりは、端々に聞えた単語をつなぎ合わせて意味や文脈を想像しているだけなのです。だから、完全に間違いではないにしても、本文の内容理解は当て勘、設問への回答も当て勘です。

 

 次に、「読み・書き・文法」という従来の学校英語教育(=受験英語教育)の土俵ではたいへん優秀な「英語力」の子が、必ずしも優れた「英語耳」を持っている訳ではないということです。

 

 たしかに総合的語学能力としての英語力の完成に「読み・書き・文法」が不可欠なのは間違いありません。しかし、どんなに座学を極めても、座学だけでは聞く能力、話す能力は身に付かないのです。

 

 もう一つは、カタカナ発音と実際の発音の乖離の問題です。

 ドイツ語やイタリア語のように、スペルがそのまま一対一対応で発音に反映される言語とは異なって、リズムや発音においてフランス語の影響を受けている英語には、スペルと実際の発音が一致しないというやっかいな問題があります。いわゆる、アンシェヌマン(日本では誤ってリエゾンと言われている)、弱形化、母音変化、省略、流音化などです。

 

 たとえば(変な例文ですが)、

 I want to read a book with him at a party for an hour.

 

 という文は、学校英語では次のように読みます。

「アイ ウォント トゥー リード ア ブック ウィズ ヒム アット ア パーティー フォー アン アウワー」

 

 したがって、子どもたち(日本人)は、リスニングにおいてもそのように聞えることを期待して耳を澄ませています。しかし、実際にはネイティヴは上記の法則に則って次のように発音します。

 

「アイウォントゥー リーダブク ウィティム アタパリィ フランナウワ」

 想定している発音と全く異なりますね。

 

 これではどんなに集中して耳を澄ませても、永遠に聞き取ることはできません。

 

 つまり、ネイティヴの英語を聞き取るためには、自分が学習している英語が実際にはどのように発音されるのか、かなり精密に音韻規則を学ぶ必要があるのです。学校英語や受験英語のように、カタカナでルビを振ったような発音で済ませているうちは決して「英語耳」は身に付きません。

 

 その一方で、都立高校入試レベルのシンプルな英語においてすら、ネイティヴは自分たちの音韻習慣で発音しています(それでも日本の中学生が聞き取れるように相当気を遣ってくれていますが)。「カタカナ耳」のままでは、全体の半分程度しか聞き取れないというのも無理はありません。

 

(この項つづく)