話をフレンチホルンに戻しましょう。

 音楽院の教授に絶対にミスをするなと厳しく言われて考えた末、私は次のように結論しました。

 

 あるフレーズを正しく奏するということは、そのフレーズを正しく奏するために必要なすべての身体の機能と認知の機能を、自分の意識が細大漏らさず「意識」した上で連合させてコントロールするということである。

 よって、正しく演奏がなされている時のすべての身体の動きとすべての認知の働きを、反復練習を通じて正しく記憶すれば、演奏中のミスは原理的に生じない。

 

 それはつまり、坂下の交差点をバイクで右折する時に、正しい身体の使い方と正しい認知の働かせ方を身に付けていれば、決して転倒することがないのと全く同じです。理屈の上では何の造作もありません。

 

 ところが、それを実際にやろうとするとかなり難しい。

 バイクにしてもフレンチホルンにしても、同時にいくつものタスクに気を配ってコントロールしないと正しく操ることはできません。

 

 バイクなら最低でも上記の8つの要素を同時に「意識」する必要があります。それがフレンチホルンなら100は下りません。これは大げさではなく、音程やリズム、ニュアンスに始まり、顔の筋肉から目線に至るまでいちいち数えていくとそれだけの数のタスクになってしまうのです。

 

 したがって最終的には、ミスなく演奏をするということは、正しい演奏に必要な100のタスクを一挙に「意識」するということに逢着します。

 

 問題は、一体どうやったらそれだけの数のタスクを同時に「意識」できるようになるかということです。自分はそれができないから演奏中にミスが出てしまう。結局、演奏中にそれだけのタスクを意識上に展開するだけのマルチタスクな意識基盤が自分には欠けていたのです。有り体に言えば、演奏中の意識のフォーカスが甘い、雑、不正確。

 

 これは簡単に修正できる問題ではありません。

 なぜならば、日常生活では複数のタスクの遂行が同時に要求されることはほとんどないで、日々を受け身で生きているだけでは、器楽演奏に必須な高度なマルチタスクの意識は身に付かないからです。

 

 かといって、「正しい器楽演奏」の練習を通じて「正しい器楽演奏」に必要なマルチタスクの意識を身につけるというのは、そもそもその意識が無いから正しい演奏ができなくて困っているのだから、堂々巡りです。

 

 要するに、普段やっていない高度な意識の使い方を、楽器演奏の時だけ意識してやろうというのが道理に合わないのです。

 

 そこで私は、なるべく日常の生活での意識の働かせ方を、楽器演奏時の意識の働かせ方に近づけることにしました。つまり、日々の何気ない動作にも意識を細かくはべらせ、普段からなるべく高度に意識を使うようにしておく。

 

 それが冒頭の「集中・丁寧・正確」です。

 日常のどんな些細な動作をする時も、ドアの開閉から箸の上げ下げに至るまで、その動作を構成するすべての自分の身体の動き、意識の働かせ方を「意識」して同時に正確に連合させるようにする。

 

 そうは言っても、それが習慣になるまでは意識を働かせることをすぐに忘れてしまいます。そこで、「集中・丁寧・正確」と紙に書いて目につくところに貼ったのです。そしてお経のように、朝起きたら「集中・丁寧・正確」と唱え、寝る前にも「集中・丁寧・正確」と唱える。そんなことを、自分の意識と身体の動きを常に「意識」できるようなるまで十年ぐらい続けました。

 

 日常生活の中でも、常に自分の意識や身体をマルチタスクにコントロールできるようになると、楽器を演奏する時も、その感覚を楽器に対してアジャストするだけで、楽器を自分の意識・身体の延長としてコントロールできるようになります。

 

 そうです。

 楽器をコントロールするとは、実は「楽器」という道具をコントロールするのではなく、楽器をコントロールする自分自身の意識と身体をコントロールすることなのです。

 

 したがって、「ミス」とは、楽器やバイクがコントロールできていないのではなく、楽器やバイクをコントロールすべき自分自身を、意識がコントロールできていないことの結果なのです。

 

 ゆえに、演奏上のミスを無くすためには、最も近しく最も思い通りにならないこの「自分」を、演奏時だけではなく常にコントロールできるように意識を改善しなければならない。それが私のたどり着いた結論でした。

 

一事が万事とはそういうことなのです。