アカデミア13期生(小5〜高4在籍) 

慶応大(文)/中央大(経)合格

 

はじめにお断りをしておくと、私はアカデミアの諸先輩方と比べて決して頭は良くありません。また、出身校の偏差値も高くはありません。ですから、当然のことながらそのような私が大学に合格するまでには、様々な苦労や悩みがありました。そこで、ここではこれまでの経験を振り返って、改めて重要だと感じたことを書いていこうと思います。

 

私は大学受験勉強において、自分には物事を実行する力がないということに悩まされ続けていました。勉強ができる人たちには、その力が当たり前のように備わっています。勉強のできない人たちには、頭の良さ云々よりもそもそもこの力が欠けているように見えます。

 

以前の私にもこの力が全く欠けていて、インターネットでいくら効率的な勉強法を検索して試しても、なかなか勉強ができるようにはなりませんでした。

 

その力とは「やって当然のことを実行に移す」というものです。

 

世の中の大半の親や教師は、子供に対して「勉強をしなさい」「勉強をしなければ良い大学に入れないよ」といったことを何度も口にします。しかし、実際には彼らがそのようなことをどんなに口うるさく言っても、ほとんどの受験生は彼らの言う「良い大学」には合格できません。なぜでしょうか?

 

それは、実は、受験をする人間のほとんどは勉強をしなければいけないとは自分でも分かっているのだけれども、それを実行に移すことができていないだけのことなのです。言う側は、言うだけなので簡単だし、勉強をすればできるようになるのは目に見えているので、「なぜこの子はやろうとしないのか?」と疑問に思うのも当然です。

 

しかし、私が言うこの「実行力」がない人間には、実はそれが一番難しいことなのです。「毎日10時間勉強をすれば一流大学に入れる」と言われれば、「そんなことは分かっている」と大抵の受験生は思うに違いありません。私も慶応大ほどの大学に合格するには、自分の勉強時間がまったく足りていないと常に自覚はしていました。けれども、現実にはなかなか机と向き合えず、いたずらに時間を無駄にする日々が続きました。自分は世界史が苦手でしたが、それはこの実行力のなさが原因だったと思います。

 

 

そこで、なんとかこの問題を克服するために日々のルーティンを決めました。このルーティンというアイデアは先生に教えてもらったのですが、たとえば、ある時間から時間までは必ず机に向かうといったことを習慣づけるものです。もちろん、はじめはかなりストレスを感じました。けれどもルーティンが定着すれば長時間の勉強も苦ではなくなり、また、ルーティンを怠るとむしろ落ち着かない気分を感じるようになります。

 

 

ここまで書いてきたことは、受験を成功させるマインドセットの土台となるものの話で、まだいわゆる受験勉強の話は書いていませんが、各科目の勉強法については触れないでおこうと思います。というのは、具体的な勉強法というものは、個々人が自分で考え形成すべきものだからです。

 

ただ、どのような勉強法を採用するにしても、絶対に避けて通れないのが過去問です。私は定期的に過去問を解き、そこで出来なかった部分をどうやったら出来るようになるかということを考え、日常の勉強にフィードバックをしていました。そして、そうやって徐々に出来ない部分をつぶして、少しずつ得点を上げていきました。

 

 

 

具体的には、慶応大の文学部と中央大の経済学部の過去問を十年分以上やりましたが、それぐらいやると、その他の過去問にそれほど時間をかけていない大学や学部と出来において明確な差が現れました。結局、あまり過去問をやらなかった大学や学部は本番でも、ケアレスミスや時間配分の失敗が起こりましたが、過去問を十分に対策した大学の本番では、練習の時に自分がシミュレートしたプロセスを再現するだけで済みました。

 

結果として、本番での得点も練習の時とほぼ同じだったと思います。実際のところ、私が合格したのは過去問を十年分以上取り組んだ上記二つの大学学部と、最悪の場合の滑り止めと想定していた駒沢大だけでした。この結果を振り返っても、過去問は重要だと思います。

 

 

最後に、現在の大学受験の状況について触れておきます。

近年、私大の受験は厳しくなっており、後になってからそんなに難化しているとは知らなかったということがないように、事前に現実を認識しておくべきでしょう。

 

2019年の受験では私立大学の受験は2018年よりもさらに厳しくなりました。数年前から、私立大学は助成金の問題で合格者数を削減し続け、2018年には私立大学の合格者数は一気に3万人ほど削られました。その結果、2018年の大学受験はそれ以前よりも次元の違う難しさになりました。

 

2019年は合格者数の削減はそれほどなかったのですが、2018年の受験状況の厳しさを目の当たりにした受験生の多くが、以前よりも手広く、そしてレベルを下げて出願し、その結果として2018年よりも一層厳しくなりました。

 

たとえば、駒沢大学経済学部のセンター利用入試では、2018年は合格基準点が得点率70%だったのですが、今年は83%になりました。MARCHに至っては合格ラインは得点率90%で、東大・京大の受験者レベルの得点が必要なりました。また、他の私大の一般入試も軒並み合格ラインが上がりました。唯一、上がらなかったのは評判を落とした日大ぐらいでしょう。

 

さらに、2021年には大学入試改革が控えているので、その前に滑り込んでおこうと受験生が殺到するため、2020年は今年よりもさらに厳しい状況になるでしょう。日東駒専は簡単だと見なされる傾向があり、MAARCHも「せめて」と形容されますが、これほど大学受験が難化しているのだから、たとえどんな大学でも侮らずに全力で取り組むべきだと私は考えています。

 

拙い文章ではありますが、ここまで読んで頂きありがとうございました。

 

 

【解題】

本人は自分は頭は良くないと断っていますが、頭の良さの定義を、いわゆる「頭の良い」子たちが中学や高校でピークを迎える通信簿的な学力だとするならば、たしかに彼は頭は良くないのかもしれません。

 

戯れ言はさておき、別項でも記したように、本当の頭の良さとは目的と手段を一致させるピントを合わせる能力であり、しかもそれは、結果が出てはじめて事後的にのみ確認できる性質のものである限りにおいて、彼の頭が良かったのは言うまでもありません。

 

ソクラテスの言を俟つまでもなく、私たち凡夫のレベルにおいて頭が良いというのは、どう客観的に測っても自分たちが思っているほどに良いということはあり得ないのだから、自分は決して頭が良い訳ではないからこそ合理的戦術と努力が必要なのだという自己認識、それがまさに健全な聡明さであると言うべきでしょう。

 

なお、後講釈になりますが、私自身は相当早い段階から彼が慶大の文学部ぐらいは入るだろうと見込んでいました。

 

もちろん、それは彼が一番「頭の良い」生徒だったからではなく、単に、無断欠席はもちろんのことそもそも遅刻も欠席もせず、しっかりと挨拶ができるという、先に成功したアカデミアの先輩たちと同じように「当たり前のこと」ができていたからに過ぎません。

 

まだ一回目の人生で、しかも未経験の事象に対して、あれは必要これは不要、今は行く次は行くに及ばずと自己判断と主観的行動で行動する人間が勝てるはずもないのです。

 

己を知る無知の知と、常識を知ること。結局はそれがすべてなのです。

 

そう考えると、大学受験における高校ランクの意義とは一体何なのでしょう?

(2019年3月記)