久々の長文です。

 

長女のジャケットの脇のところがほつれていたので、「縫ってあげるよ」と裁縫道具を出してチクチクとやっていたら、「私もやってみたい」と言うのでさせてみました。

 

日本の学校の素晴らしさについて、色々話をしながら。

 

日本では家庭科の授業があって(今は呼び方が違っているのかな?)女子も男子も裁縫を習ったり調理実習をしたりすること。

 

美術の時間には彫刻刀なんかもガンガン使って彫り物なんかもすること。

 

給食当番の話とか、掃除の話の時間とか。体育の時間では水泳もするし跳び箱もするし、逆上がりだってクラスのみんなができるようになるまで、先生も一緒に頑張ってくれるところとか。

 

これら全て、アメリカではありえない光景だよね、と。

 

日本とアメリカの教育の大きな違いは、「みんなができるようになるように」とか「全員やらなきゃいけない」っていうことの基準の違い。これは大きい。

 

元々、色々な人種や価値観、宗教も違う人達が集まるアメリカ。みんな同じにっていうのは、現実的に無理があるので、「みんな一緒でなきゃいけない」ことも限られています。

 

でも、もちろん目指す基準はある。特に受験科目の基準はかなり高くて、そこにみんなが届くように教師もかなり頑張っています。

 

例えば、長女がアメリカ50州を覚えなければならなかった時、(地理や単語の綴りも全て)、先生は子供達に「50州覚える」というゴールにたどり着くためのやり方の選択肢を色々と与えてくれて、覚えないといけない期日も6か月先と、ゆるいものでした。

 

だから、一週間でやってしまう子供がいれば、6か月かかる子もいたけれど、目標の「全員できるようになる」はしっかりクリア。

 

アメリカの公立学校はそれぞれの学年で、通常クラスに通っている子供なら「頑張れば、必ずできるようになる」ということは、全員きっちりやらせます。例外はなし。それができない場合は落第も普通にある(スティーブンも低学年で一度留年したことがあるらしい。)

 

一方で、運動神経とか体力は人それぞれ違うので、体育の時間の目標はあくまでも健康のために体を動かすという感じで、マラソンにしても喘息がある子は歩いても怒られないし、5週でいいところを10周走りたい子は、仲間をゴボウ抜きで走っても、もちろんオッケー。芸術系は小学校のうちから選択制も多いみたいです。

 

 

 

日本の公立学校で教員をしていたときに、私が一番エネルギーを消耗していたこと。

 

それは、なんといっても生徒に校則を守らせる「生徒指導」でした。

 

スカートの丈から髪の長さ(髪を染めるなんてもっての他)、運動靴の色や形などなど、あげればキリがない。

 

当時はそういうものだと思っていたし、「○○先生はちゃんと指導しているか」という周りの教師や保護者の目もプレッシャーで、校則はきっちり守らせることにはかなり神経を使っていました。

 

で、結果としてどうなるかというと、

 

生徒のちゃんとできていないところ(ちゃんとできる=校則を守る)にばかり目が行ってしまうという残念な状態に。

 

校則が一番嫌いなのって生徒じゃなくて、それを守らせなきゃいけない先生なんじゃ?

 

朝の会で、まず本来ならば「全員そろってみんな顔色がいいな」とか「あの子の表情が少し暗いなあ」

 

とか、そういうことを先生はチェックするべきだと思うのだけれど、

 

まず目が行くのはいつも校則違反をする生徒。そして

 

「またあんな靴下を履いてる」とか「また眉毛が細くなってる」とか、そういうところに目がいって

 

「あ~また、休み時間に呼び出して注意をしないといけないよ。」と朝の会の間中、悶々と考えていたりとか。

 

なんでダメなの?と言われても、理由は「校則だから。大人になったらできるんだから今やらなくてもいいでしょう」と、なんか説得力ないし。

 

アメリカにも校則はもちろんあります。

 

例えば子供が通っているアメリカの学校でも、おやつを持っていくのは問題ないけれど授業中に食べるのはだめだし(授業中にモグモグやられても迷惑)、お尻が見える程短いショートパンツもだめ(納得。年頃の生徒がそんなの見たら興奮して勉強どころじゃない)。

 

「安全を脅かすもの(いじめも含む)学業の妨げになるもの」には、理にかなった厳しいルールがあり、それを守れない場合は退学もあり得る。

 

勉強でも出席日数でも、学校が定めた基準に届いていない場合は、小中学校でも留年または退学もザラ。

 

容赦や情けもなし。自己責任。

 

日本とは桁違いに、すごくダークなものを背負ってしまっている児童生徒も多いアメリカ。親がドラッグ中毒だったりなんていうケースもあって、そういう子供はやっぱり学校で問題を起こしがちなのですが(家で自分のことを見ていてくれる存在がいないと、子供はそれを外に求めるから)、

 

そういう深刻な問題に介入するのは、学校の先生の仕事じゃなくて、カウンセラーだったり、ソーシャルワーカーの仕事です。その子の問題が深刻過ぎて、周りの児童生徒が安心して勉強できる環境が脅かされる場合は、容赦なく「退学」させられることもアリ。

 

アメリカで、Division of Labor(分業)の概念が、小さい頃から培われるのも納得です。子供達も学校へは教科の勉強をしに行くというのが大前提なので、トイレ掃除をすることもない。教師も、自分がやること(授業)はきっちりやり、それ以外は他にまかせる。

 

それと反対で、日本の先生は背負っているものが多すぎる印象です。教科が好きで、それを教えたくて先生になったのに、児童生徒が問題を起こせば、(勤務時間外に)その子の家まで行って保護者と話をしないといけなかったりで、教材研究どころではない現実。

 

生徒指導に時間が取られてしまっている時など、平気で授業に遅れて来る先生達もけっこういるんじゃないかな。

 

アメリカではそれはまずありえない。先生の仕事は授業。授業が命。チャイムと同時に授業が始められるようにするのはお給料をもらって仕事をしている教師の義務。

 

とにかく、アメリカの教師が一番情熱を注いで力を入れているのは何と言っても

 

「授業」

 

これに尽きる気がします。

 

 

長々と書きましたが…

 

裁縫も料理も硬筆もトイレ掃除も学校では教えてもらえないアメリカ(ただ、何でも出来るに越したことはないけれど、それらを一生やらない自由もあるのよね。)

 

格差がものすごく激しいのも、その辺にも要因はあるだろうし。経験値の差は格差につながるから。

 

一方、全ての子供達に求める基準のレベルが非常に高い日本。校則や暗黙の決まり事もすごく多いけれど、きちっと守る。守らせる。

 

だけど、いい歳した大人やメディアが「みんな違ってみんないい」とか「世界に一つだけの花」ってまるで呪文か何かのように唱えているのを見ると、これって自己の確立ができていないっていう不安の表れなんじゃ?とも思うのです。