帰宅するとほっと気持ちが緩み、体がクタクタになっていたことに気づく。

腹がへっているので、冷蔵庫の中を見る。
カイワレダイコン、エノキ、小松菜、ナス。全て、少量ずつ残っていて、若干痛み始めている。


たいていこういう時は、てきとーに炒めたり煮たりして、うどん、そば、パスタの具にしたり、鍋や味噌汁やスープの具材にしたり、丼物にしたりして、さっさと強引に食べてしまうってことが多かった。が、ふと、そういうやり方へのマンネリを感じた。

キッチンのあちこちを探すと、強力粉が見つかった。"てきとーに&強引にメニュー化精神"はそのまま変えないで、てきとーに作れる"雑ピザ"を作ることに決めた。


ピザを焼けるオーブンとか釜なんてないから、フライパン。


ほかにも使えそうな、余り物の具材をてきとーにカットする。


生地は分量なんて計らず(てきとー)。
なんとなく、さわり心地でこんな感じじゃねーかなあー、きっと。……たしか、テレビで見たピザ職人、こんな感じでやってたし!
……みたいな、超アバウトな感覚のみ。


強力粉とドライイーストとお湯(風呂で自分が"いい湯加減"って感じるくらいの温度にした。)を混ぜたものをこね、最後サラダ油を少し混ぜると、しっとりした生地っぽくなった。

フライパンに伸ばし、蓋をして30分くらい放置。



蓋を開け、切った具材をのせた。





やってみると、すごく簡単。1時間かからないくらいで出来て、なかなかうまくできた。


ガス火が強いからか、分量を計らないでてきとーに作ったからか分からないけれど、
生地がやや硬くなった。でも、これはこれで、うまい!(……とする!)
ヨメさんからは、「アウトドアで食べるピザみたい!」という感想。


クッタクタの体だったけれど、
すごくたのしかった!

きっと、手探りで、感覚をはたらかせながらボンヤリとした方向性しか定まっていないままつくったのがよかったんだろう!



自分の感覚をあれこれと はたらかせてみたり、自由に思考したり、試してみたり、「あれ!?これ、予想してたものとちょっとちがうな!」ってなってからも「どうやったら、これを、望んでいる方向に変えられるかな?」など
とアイデアを再び考えたりできる面白さ。


材料や作り方をやたら細かく調べて、必要だと書かれていた(または言われた)物をアチコチ探しにいったり、工程や手順をチラチラチラチラ確認したり、分量をイチイチイチイチ計ったりして、「“その通り"にしよう!」としすぎると、一気に、“ただの作業“と化してしまったり、“誰かの情報に従っているだけ“になってしまったりして、つまらなくなることがある。(“しすぎる“のが窮屈だと思っているだけ。ある程度の情報収集は、より自分の感覚をはたらかせて楽しむためには、大切なことだと思っている。)



感覚をはたらかせたり、考えたり、工夫したりできる余地が残されているかどうか?


以前に(大学の授業だったか……)で「“作り方“が示されている"説明書“と“部品“が入っている、“プラモデル“をつくること」と、「ある材料や道具などから自由にイメージを広げてつくること」の二項対立で展開される話を聞いた。

子どもにものづくりの活動をさせる際に、「決められた物を、手順に沿って作ること」と、「自分でイメージを膨らませて何かをつくること」の2場面が考えられるが、後者が子どもの成長のためには望ましいという話だった。……たしか。

「決められたことを、ただ、決められた通りにできる」ということではなく、「素材や道具、条件などから、丁寧に何かを感じとったり、自分で考えたり、想像してみたり、思い付いたことを実際に試したり、整えたりするなどの試行錯誤を経て、自分の考えや思いを表現する」ということが大切なのだという話。

当時はなるほどなあーと聞いていたが、

ふと、そんな簡単に
2つに線引きできるもんでもないんじゃないかなあと思った。


ゴールやプロセスが決められている「プラモデル」にも、作っている過程で様々な要素を感じ取れる場面や、作り手が試したり工夫したりできたり、自己決定できたりする、「創造の余地(自分なりに“あそぶ“余地)」は残されている。

二項対立ではなく、創造の余地がどれだけ残されているかの「度合い」の違いがあるってだけではないか、と思った。


“子どもは遊びの天才“なんて言葉を聞くが、子どもたちは、物とかかわる際に、その社会の中でその物に込められた“意味“よりも、“自分なりの解釈“でもって、自由にかかわっている。


24時間のうち、ほんの30分でよいので、自分のチャンネルを子ども感覚に切り替えられる時間があると、生活が豊かなものになったり、精神的なバランスが偏らなくてよいだろうなと思った。