日本人にとってカメラは、身近な存在。スマートフォンがあることで、体の一部であるかのよう。でも、こんなにも身近なのに、扱いきれないほどの高性能なカメラ機能。
いい加減にとっても、自動でピントを合わせてくれたり、
たとえ、色彩や構図のバランスが気に入らなくても、ちょうどいい感じに、撮った後に整えることができる。
そういうことができる楽しさもあるが、「そういう風にできないこと」の面白さもある。いい加減にデジカメやスマホで撮った写真が、あまりにも自動で、"一般的なバランスのよさ"に調整されてしまうことの窮屈さも感じていた。
そんな思いがあった頃に、フィルムカメラで撮るアナログの感覚を楽しんでいた。現像するまで分からない面白さや、現像された写真を見たときの、自分の意図したように撮れずに、偶然的に面白いものが写っていたり……言い出すときりがない偶然的な、その瞬間や空間を切り取れる面白さを楽しんでいた。
……が、
最近、デジカメやスマホ等の
窮屈だと感じていたカメラ機能のよさにも気付けた。
「高機能」は、大人が中途半端に扱うと、単なる「ぎこちない、なんとなく体裁が整っただけの、無感情な写真」を生み出すように思う。(←ちょっと言い過ぎかもしれないけど)
でも、子供が扱うことによって、それらの「高機能」は、子供がその瞬間に感じたワクワクした気持ちなどを「大人に分かりやすく」伝えるための素晴らしい道具になる。
この前、子供にデジカメを持たせて、写真を自由に撮らせたことがあった。子供は、カメラの使い方なんて特に詳しく知るわけなんてないので、ただ、興味をもったものにむけて、ひたすら、シャッターを押した。それらの写真を後で見てみると、まるで、その子の見たものをそのまま見れたような感動があった。大人からしたら、子供は粗削りに、でも純粋に、好奇心でひたすらシャッターを押したのかもしれないけれど、
カメラの高機能が、子供の粗削りさを補正して、子供の感じたまっすぐな感動や、その子の言いたかったことをまるで、翻訳するかのように、(自分にとってかもしれないけれど)分かりやすくしてくれていた。