シリーズ/地球環境問題を考える・・(2) | 江田 けんじオフィシャルブログ Powered by Ameba

シリーズ/地球環境問題を考える・・(2)

今週の直言
『地球環境問題を考える・・・(2) 京都議定書の真実(上)』

 97年12月といえば、北拓、山一の連鎖破たんがあり、金融恐慌一歩手前で大変な時期だった。10年先の地球温暖化対策の枠組みを決めるより、当座の危機を凌ぐことの方が焦眉の急だったが、当時の橋本首相は「環境族」の名に恥じないリーダーシップを発揮した。

 「京都議定書」。国際政治の枢要なプレーヤーなら知らない人はいない。この条約史上はじめて日本の都市名を冠した文書は、地球温暖化対策に関する世界のテキストになった。後になっての批判は容易いが、茫洋とした目標だけを定めた「地球環境サミット」「気候変動枠組条約」(92年)からたったの数年間で、温暖化ガスの、先進国・国別排出目標を定めた国際取り決めができると、当時一体誰が予想したろう。それだけで大きな成果だったと私は思う。

 京都議定書は、第1期の約束期間を2008年~2012年の5年間とし、先進国は少なくとも90年比で▲5%が目標とされた。EU▲8%、米国▲7%、日本▲6%である。その計算に当たっては、森林吸収源やCDM(クリーン開発メカニズム)を認める。途上国の参加は最後まで討議されたが、結局、途上国の反対により、最終的には盛り込まれなかった。

 結果的には、予想以上のレベルでの削減目標で合意できた。当初は、米国は0%を強く主張し、しかも途上国参加が絶対的条件だった。一方、EUは15%を主張し、米国と日本との同等にこだわった。日本の政府部内では、国内、特に通産省と産業界の反対で当初は0%、その後の調整で2.5%、ただし2%分は誤差の許容範囲内という姑息な案すら検討されていた。差し引き、0.5%削減で良いというわけである。

 橋本首相と大木環境庁長官は、しかし、早くから、「それでは議長国としてもたない」という認識に立っていた。国立環境研究所は、ベストシナリオでいけば日本は7.5%の削減が可能という報告書を出していた。これが「積極派」の理論的バックボーンになった。もちろん、通産省総合エネルギー調査会では、2010年はおろか30年になっても0%、すなわち、やっと現状維持という報告書で対抗した。こうした大きなギャップを埋めなければならなかったのである。

 その後、橋本首相の指示で幾度となく関係省庁会議が開かれ、日本の削減目標は4%まで上がった。こういう中で「京都会議」は始まったのである。筋書きのない多国間交渉だった。

 交渉のポイントはやはり米国だった。会議の途中、今やノーベル賞を受賞した地球環境問題の第一人者、ゴア米副大統領(当時)が来日し各国の期待を集めたが、それでも米国は0%だった。ただし、米国にも「柔軟性はある」との発言が注目された。

 その中で議長提案が出た・・・

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