アパート僧侶の戯言 -10ページ目

アパート僧侶の戯言

一人暮らし歴15年の独身アパート暮らしの僧侶が、日常の出来事や感じたことをおもいのままに綴っていきます。

誰のために更新され、何のために更新されるのかは、不明です。がなにかしら意味があるだろうと思っています。

以前「辛い経験は人やさしくする」という旨の発言をしたところ(そのブログはこちら

 

体育会系の部活や会社で、「自分もいじめられたから後輩をいじめる」ということもあるのではないでしょうか?辛い思いをしたがゆえに、他に辛いを思いを味わわせてやろうという人もいると思います。その連鎖はどうやって断ち切ったらいいんでしょうかね。見解をきかせてください(取意)

 

とご質問を頂きました。ですので、私の思いを書かせて頂こうかとおもいます。

 

 

このご意見はごもっともだと思います。ほんでも、辛い思い、苦しい思いをしたときに「私の悲しみをわかろうとしてくる存在」に出会えたかどうかが大切なんかなぁと思います。

 

一概には言えんけど、「だれも助けてくれんかった。わかってくれんかった、わしは一人で耐えたんじゃ」という思いが、「おまえもその思いを味わえ」という考えに変貌していくんじゃなかろうか。

 

逆に辛い経験をしたとき、苦しい経験をしたとき、自分のことを必死で分かろうとしてくれた存在に出会えたなら、もし他の支えに救われたとするならば、「次の世代に同じ思いをさせてやろう」という思いは薄れていくんかなぁと思ったり。

 

人間どのように変貌していくかは、紙一重だと思います。そのときに何に出会うのかだと思います。

 

もし

 

「俺の高校生活はコロナで台無しになった!お前が高校に入るときは大地震でもくればいい!」なんて言ってしまうような人

 

がいたとしたらその人には、そう言わずにはおられなかった思いというのもあるんでしょうね。そのような人を「ろくでもないやつだ」と言ってしまうのは簡単じゃけれども、そう言わずにはおられん悔しさがあったんじゃろうな」と理解しようとしていくことが、その連鎖をたちきることになっていくんじゃなかろうか。

 

と偉そうなことを書きましたが、本当は人間が他人の悲しみを完全に理解することはできません。けれども理解しようとしてくれる、分かろうとしてくれる、その姿に救われるのかもしれません。そしてその経験が、他を理解しよう、他を分かろうという思いを育ててくれるのではないでしょうか。

 

うまくお答えできているかわかりません。簡単な問題ではないので、これが正解ということではないと思いますが、ご質問に対しての私の率直な思いを書きました。

 

どなたさまもなにかありましたら、コメントくださるかメールください!

 

 

ちなみ浄土真宗のことをすこーしだけ書かせていただくと、阿弥陀様という仏様は仏様になられる前は法蔵菩薩という菩薩さまでした。

 

法蔵菩薩さまは、考えられないほど長ーい時間をかけて私のことを研究し続けてわたしの全てをわかって下さった。とお経に書いてあります。

 

その長ーい時間はそのまま私の悲しみも苦しみもすべてわかろうとしてくださった時間なんですよね。そのことが有難いし、そのことに救われるんですよねぇ。

 

とちょっと言ってみました。

 

 

なんまんだぶ~

 

 

 

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