ニートの若者は海外へ行くべき?
ニートの若者は海外へ行くべき?
最近、書店で「東大よりハーバードに行こう!」というタイトルの本を見つけました。同書の著者は、学習塾を経営する父親の下で育ち、思春期に米国に渡り、日米両国での教育を受け、その体験に基づいた独自の教育論を展開する内容です。
その中で、「自分はもともと数学はとても得意であったが、英語は苦手で、米国に渡ってからもしばらく英語力のなさに苦しんだ。しかし、米国では、あくまで各生徒の得意科目を尊重し、小学校や中学段階でも、能力や適正に応じて大学以上のレベルの学習内容を追求させるシステムが定着しており、実際、英語力のなさはその後の評価や進級にはほとんど影響しなかった」と告白。
また、「一方、日本では、どんなに得意な科目でも、その成績評価の最高は“5”で頭打ちにされ、余ったエネルギーは不得意科目の補強・充実に当てられる」その結果、「一通りなんでもできるコピー人間が大量生産され、一芸に優れた飛びぬけた才能の持ち主は評価されず、また育たない」と評しています。
同時に「このように人間を平均化するだけの、創造性に欠け、魅力のない教育システムが、日本の若者から夢や意欲を奪い、ニートやフリーターの増加を加速させているのでは?」したがって、「自分が将来何をやればいいのか解らない若者は、欧米の学校・社会に行くべきだ。そうしたらきっと自分の才能が見出せ、夢が持てる!」と結論づけています。
一方、先日、あるテレビ番組で、青色発光ダイオードの発明者で、現在米国の大学で教鞭をとり、次期ノーベル賞候補と言われている中村教授が、「日本の企業や大学では、個人の才能は十分評価されない」と、“発明の対価”をめぐる訴訟での事実上の敗訴を嘆いていました。同時に「米国では、もっとも優秀な学生はベンチャー企業家を目指し、次がベンチャー企業に就職し、次が大企業に就職し、最後が官公庁に就職する」と述べ、日本での「東大→大蔵省or旧財閥系大企業」とは全く逆の構図の存在を指摘していました。
ところで、このような日本の教育システムが、旧態依然とした日本型“ムラ社会”で、「生涯波風立てず、大過なくサラリーマン生活を送る」ような、いわゆる“オトナ”あるいは“よい子”と言われる“日本型クローン人間”を大量増殖させるための補助システムであることは、この本の著者の言葉を借りるまでもなく、これまで私が繰り返し指摘してきたことからすると、至極当然の評価・位置づけでしょう。
要するに、教える側の教師もサラリーマン、教育内容を企画する文部科学省の役人もサラリーマン、家庭や社会の構成員もサラリーマンとなると、その子達はみな“金太郎アメ”なのです。
そのせいか、物事を深く冷静に考え、その結果としてのポリシーや行動哲学を持つことがない多くの“ムラ社会”の構成員たちにとっては、「喉もと過ぎれば、なんとやら」で、案の定、あれだけ騒いだ“ライブドア問題”もすでに沈静化、巷の話題からも消えつつあるようです。
つまり、物事を感覚的にしか捉えられないがゆえに、一時的に盛り上がっても、すぐに忘れる国民性を称して、「熱しやすく冷めやすい!」といいます。それでも、60年前のことをいまだに持ち出し、騒ぎ立てる某近隣アジア諸国よりは、“すべて水に流す”文化の精神構造形成に貢献していると考えれば、まだましなのかもしれません。

