人生は論争だ 2, 経済学って近代道徳哲学だから

人生は論争だ 2, 経済学って近代道徳哲学だから

LIFE IS CONTROVERSIAL, Economics as Modern Moral Philosophy

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ブータン国王の来日と共に「国民総幸福量」というものがニュースで紹介されている。この言葉を聞くに、まず思い出すのは、ジョン・スチュアート・ミルの「最大多数の最大幸福」。でもそれよりも私の心に引っかかったことは、このニュースの作り手たちは経済学の伝統的な概念について知らないのだろう、ということ。


「経済的、物質的豊かさではなく、国民の幸福量を考える」といった紹介がテレビではされている。この言葉からは、経済学を理解していないことがやすやすとわかる。確かに、GDP(国内総生産)経済指標として知られている。「国民総幸福量」とは、GDPよりも大切な指標として先のブータン国王が提唱したものらしい。だが、貨幣額で測るものばかりが経済学ではないのだ。


経済学で用いられる豊かさの基準とは貨幣額である、というのは誤解だ。ついでに、物の生産量でもない。貨幣額は便宜上用いられるものに過ぎない。経済学で用いられる豊かさは、一人一人の人間がどれだけ満足を感じるか、によって測られる。その満足度の基準は、「効用」と呼ばれる。


あまり経済ニュースやビジネス誌などではこの言葉は出てこないが、ミクロ経済学では全体にこの考え方が用いられている。ひとつ例を挙げるなら、経済学で用いられる「無差別曲線」というものを調べていただきたい。これは、ある一人の人が同じだけの満足度(もしくは効用)を感じ取る組み合わせを座標上に書き、線でつないだものだ。ここで使われるものは効用であって、貨幣額ではない。無差別曲線は経済学のごく初歩的なところで扱われる。つまり、これは経済学の基礎として広く認められたものであって、特殊な理論でも、ごく少数の経済学者の支持する概念でもない。


実のところを言うなら、この効用の考え方が経済学の根幹を成すものであって、貨幣額はそれほど経済学の中では理論を構成しない。


そして、ジョン・スチュアート・ミルはしくじった。彼は、国民がより多くの幸福を得られる社会を作り出す方法を見つけ出すことはできなかったのだ。


ある経済学者がこう言った。

「経済学は、曲がりなりにも人々に幸福を与える方法を見つけ出すことに成功した。そしてこれを達成できたのは経済学だけである。」

残念ながらこの経済学者が誰だったのか、忘れてしまった。出展も覚えていない。だから、少しばかり表現が違っていたかもしれない。


経済学が扱っているのは、どうすれば貨幣額にして生産量が増えるか、といったことではない。経済学の研究していることは、どうやって社会の構成員たる一人一人の人の満足度をあげることができるか、ということだ。


経済学的豊かさは、幸福そのものをどれだけ得られたか、それをそのまま表したものではない。それでも、近代が達成した社会を考えてみるなら、いく分かはそれ以前よりも幸福度が増したと、言える。

得られたものは、まず、貧困の減少。病気の治療法の発見、乳幼児死亡率の減少と長寿化。自分の生命を維持する以上の食物にありつけることさえも、近代以前は困難だった。自分の生活の選択肢が増えたこと。人生の楽しみだって、増えている。世界中を旅行することなんて、300年前では、庶民の楽しみとしては考えられなかった。


経済学は、社会の構成員一人一人により大きな効用を与える方法を見つけ出した。そこで達成された社会は、国民により多くの幸福を与えることに成功した。


そこで達成された幸福が、「曲がりなりにも」と銘打たれた幸福なのは認める。現代において社会問題がなくなったわけではない。近代以前にはなかった問題だってある。


では、ブータンの哲学の考える幸福の大きさは何によって測られ、そしてそれを達成するための方策はどんなものなのだろう。それについては、ウィキペデイアの記事がある程度の情報をくれた。日本語版での記事 もあるが、英語版の記事 はより詳しい。


さて、話を戻そう。経済学の、効用をもととし、社会構成員により多くの満足度を与える、という考え方は広く知られていない。その理由は何なのか。

ハワード・ゼア(Howard Zehr)の「終身刑を生きる」と言う本の中に、こんな一節がある。


私自身の見解を明らかにしておきたい。私は、仮出所の可能性なしで死ぬまで拘束される刑には反対である。このような先入観は、私の終身刑受刑者との経験によって強固になった。


(ハワード・ゼア「終身刑を生きる」  現代人文社 p,4)


この文章には真摯さを感じる。


もちろん、だから死刑にすべし、という主張ではない。重犯罪者であっても、社会復帰の可能性を与えなければ、ととるべきだろう。


ハワード・ゼアは、修復的司法学者で、アメリカ、バージニア州にある、イースタン・メノナイト大学(Eastern Mennonite University)の教授である。もう少し詳しい説明のために、ウィキペディアの記事もう一冊の著作 を挙げておく。ついでながらに書いておくと、私がそれほど彼についてよく知っているわけではない。


自分の見解をはっきりと示すことは、恐ろしい。特に、相反する考えが存在する場合には。それも不特定多数の人が知るような形で発信する、となるとなおさらである。


人は間違えることもあるし、後々、それとは逆の考えを持つようになる可能性もある。でも、何よりも、違う見解を持った人間からの攻撃を真っ向から受ける覚悟なくては、自分の見解をはっきり示すことはできない。


殺人を犯した犯罪者の場合、一生をかけて償うべし、と考えるのは当然だ。殺人ついでに強姦、強盗などを繰り返した犯罪者なら、一生、社会から隔離したほうが安全だと、考えるのが当たり前だろう。でも、ハワード・ゼアの主張では、そんな犯罪者であっても、社会復帰の機会を与えるべし、ということになる。


でも、自分の考えをはっきりと示さないのは、無知な人間か、卑怯者のすること。特に、他人が批判できるだけの、自分の考えを示さずに、揚げ足取りをするのは卑怯者。自分は安全な位置にいて、他人を攻撃しているのだから。そして、その卑怯な態度は、建設的に話し合いをし、よりよい結論を導き出すには邪魔することになる。


そして、自分の考えをはっきりと示すと言う真摯な行為と共にあるべきなのは、自分と違う考えを持つものへの尊重(英語で言うなら、respect)となる。



この記事は、以前に書いた、「菅首相の攻めと守り」 と併せて読んでいただきたい。

ここで、マスメディアについても述べておきたい。


現代の民主主義体制の中では、国家が国民に不利益となるような行動をしたとき、そのことを広く知らせる機関としてマスメディアが機能する。だが、日本の主要なマスメディアはその任を果たしていない。


おりしも、小倉智昭氏が、BSスカパーの番組で認めてしまった。原子力発電所事故に関する情報でキー局は東京電力や政府から上がってくるものばかりを扱っていることを。


いつなくなるかわからないが、その関連ページをつけておく。

YouTubeのサイトでは、こちら

文章になっているものは、こちら


加藤浩次氏が「もしかして間違っているかもしれないものは報道できない」とか、苦しい言い訳をしているが、それはその場逃れのでたらめだ。


たとえば、過去に「看護士が患者の爪をはいだ」とか、「教師がセクハラさいころを使って生徒に性的ないたずらをしていた」かのような報道があった。これらの報道はまちがっていた。これは個人に向けられていたので、標的にされた人には多大な被害を及ぼした。人一人の人生を終わらせてしまうほどに強い影響力があったはずだ。


冤罪になった容疑者、もしくは被告人に関しての過去の報道までは調べていないが、警察からの発表なら、間違っている可能性がいくらあろうとも、平気で報道していたことは憶測できる。


これでは警察の思う壺ではないか。警察はもちろんのこと、政府の行動に対して、チェック機能として報道が働かない。政府にとって都合のいい報道に偏る、「御用機関」と言われても仕方ない。これは民主制の危機。そう、警察がどんな横暴をすることも許されてしまう構造がここでも揺るがないのだ。

ここで、私の考える警察のあるべき形、というものを示さないわけにはいかないだろう。


確かに、警察が単に法律で示されているものをそのまま市民に強要すれば、それでみんな幸せ、というわけではない。法律が完全無欠であるわけでもない。警察の範囲内で判断できることも実際、あるだろう。一つ一つの犯罪となりうる事柄について、現場で携わっている警察官に酌量の余地を与えない、というのも間違っているかもしれない。


でも、いつも気になるのは警察、それも警察の本部、中枢の部分に権力が集中するような形でことが作られていることだ。


警察にはどれだけの権限が与えられるべきなのか。それは実際、私の身に余る課題ではある。それをふまえたうえで、私の考える警察の形を述べておく。


まず、以前から言っている通り、警察の一本化は反対だ。つまり日本の現在のように、一地域にはひとつの警察組織(県警や警視庁)しか置かない、という。そして、その全体の上部組織としての警察庁を置くことにも反対だ。この点では、州警察、市警察、国家警察、保安官のように、いくつ者独立した警察組織を持っているアメリカの形を支持する。もちろん、それぞれの組織は、他の警察の人事にも、捜査方法にも口出しはできないようにしなければ。


そして、立件する権限を警察の特権とするのもおかしい。犯罪被害者に依頼された弁護士であれば、刑事犯罪においても、立件申し立てを裁判所にできるようにしなければ。その場合の捜査は、弁護士側にもある程度できるようにしなければならない。

そのためには日本の弁護士制度の見直しも必要になってくるだろうが。


そしてもちろん、警察省庁に法律を創らせてはいけない。それは国会の仕事だ。いままで警察庁にかかわらず、官僚に法律を創らせていたのは、国会議員の怠惰、いや、国民への背信行為というべき。そんなことをしたら、三権分立が守られないのはもちろんだ。官僚が自分たちに都合のいいように法律を創るのは当然だ。国家の運営を官僚が思うがままにしてしまったのは、今までの国会議員に重い責任がある。

現場で働く官僚、公務員に法律の内容に意見をもらうのまで禁止しようとは思わないが、最終的に法律の条文を創るのは、国会議員でなければ。


所詮私が提案できることなど、この程度のものだ。

もっといい提案、私の至らないことなどがあれば、教えてくれれば幸いだ。

黒木昭雄氏がある顕著な例を挙げている。この事例を読むと、警察に任せておけば大丈夫、警察は正義の機関なのだから、とは決していえなくなる。


詳しくは、彼のブログ記事 もしくは、著書 (「栃木リンチ殺人事件-警察はなぜ動かなかったのか」)を読んでいただきたいが、ここにごく簡単にこの事件の概要を示しておこう。


これは、当時まだ19歳の少年が2ヶ月間、監禁され、暴行を受け、その最後に行われたのが殺人、という事件である。この事件では、怪我をした被害者が怪しい男たち(つまり加害者)と一緒にたびたび銀行を訪れ、その都度、大金を引き出していた。それを目撃していた銀行員が犯罪性を疑い、防犯カメラに映った映像や現金の引き出し記録などをそろえて、警察に犯罪解明のための協力を申し出までした、という。にもかかわらず、警察はこの犯罪を無視した。


「警察の人間がきちんとしていれば大丈夫」という見方は甘すぎる。警察官になる人間は、それなりに法の正義を守ることを胸に、志願してきた、そう考えることはできるが。


一人一人の人間には、弱さもあり、成功を目指す心もあり、正義を愛する心もあり、情けもある。えこひいきしたい心も、嫉妬心も、自分の思い通りにならないと腹が立つところも、感情を時には抑えられないところもある。それがあいまってどういう結果になるか、そう考えねばならない。


その上で、警察というあるひとつの組織に、一方的な権限を与えてしまうと、結果としてどうなるのか、それを考えねばならない。現在の警察組織は、あまりにも危険な構造を持っている。


ある程度高い地位にある警察官が、自分の思い通りに、自分の気に入る人には成功を与え、自分が気に入らない人は犯罪者にしてしまおうと思ったら、できてしまう。警察の判断ひとつで、犯罪者を「違法性なし」として釈放してしまうこともでき、誰かを犯罪者に仕立て上げることもできる。何しろ、法律まで創れるのだ。自分が気に入らなかったら、その人間がしていることを犯罪となるように法律を創ることすらできてしまう。


(私がこういった文章を書くときには、実は恐怖心が沸き起こる。私を犯罪者にして社会から抹殺するだけの力が警察にはあるのだ、という認識があるから)


つづく