いつもエコノミライ研究所のブログをご覧下さり、誠にありがとうございます。
約2年ぶりに訪問した
湯郷温泉てつどう模型館&レトロおもちゃ館ですが、
基本的に変わっておらず、安心致しました。
楊田は、館長様の了解を得まして、撮影を実施致しました。
2年前の先回は、スマホカメラだったため、
全域f2.8という明るいレンズ、1インチセンサーという若干、高性能なカメラである
SONYのRX-10
での撮影を、漸く、敢行することができた次第です。
その成果を纏めようと思っているのが、このシリーズのもう一つの目的。
写真の差し替えが主な作業となりますが、
過去記事のサルベージにもなるので続行します。
差し替えを実施するのは、主に、帝国海軍艦船と致します。
また、この博物館を訪問した、もう一つの目的についても、語らなければなりません。
スペースを見つけ、この話題にも入りたいと思います。
by RX-10
大日本帝国海軍重巡洋艦妙高(みょうこう、1929(昭和4)年7月31日竣工、1946(昭和21)年7月8日英軍により海没処分)
帝国海軍の重巡洋艦は、18隻ございます。
古鷹、加古、青葉、衣笠
妙高、足柄、那智、羽黒
高雄、鳥海、摩耶、愛宕
最上、三隈、鈴谷、熊野
利根、筑摩
妙高は、所謂、条約型重巡の時代只中に計画・建造されたシリーズのネームシップであります。
口径20.3cm主砲を連装5基10門搭載していましたから、相当、重武装のフネでありました。
また、ネームシップという幸運に肖(あやか)ったかどうかは分かりませんが、艦隊旗艦を務めることもしばしばでしたから、
帝国海軍にとりまして、大切な重巡洋艦であったことを推察することができます。
大正年間後期に計画され、ポツダム宣言受諾をした昭和20年8月14日まで「生き残った」幸運艦の部類に属するフネでありました。
「高雄」の紹介のときにも触れましたが、
高雄と共に、ネームシップとなるフネが同じ船渠(せんきょ)で生まれ出で、同じ港で、同じ処分を受けましたから、
妙高と高雄は、よっぽど、縁深い、何らかの関係性が存在したのかもしれません。
以上、妙高の紹介をもちまして、展示されていた帝国海軍巡洋艦の紹介を一通り実施することができました。
続きましては、
帝国海軍の主力打撃専門艦艇である、「戦艦」(BATTLE SHIP)の紹介となります。
by RX-10
大日本帝国海軍戦艦陸奥(むつ、1921(大正10)年10月21日竣工、1943(昭和18)年6月8日沈没)
拙敲「周防大島にて・・・」シリーズで紹介したフネであります。
「陸奥と長門は日本の誇り」
コロラド、メリーランド、ウェストバージニア、ネルソン、ロドニー、陸奥、長門
所謂、「ビッグ7」の1隻であります。
帝国海軍総旗艦という、最大の栄誉を受けることが多かったフネでありました。
陸奥が、どのような戦場(いくさば)で活躍したかを調べますと、やはり、真珠湾攻撃が筆頭に挙げられます。
とはいえ、この作戦行動中、陸奥は舵故障により艦隊から落伍していたとのことで、下手をすれば、敵潜水艦の攻撃対象となった可能性もあります。
所謂「八八艦隊」(はちはちかんたい)構想により戦艦として建造されたは良いものの、就役時において、既に船足(スピード)の遅いフネであったことから、
大東亜戦争時、このフネの運用を巡っては、活躍の機会を与えることに、関係者は苦慮したのかもしれません。
最前線に出されることなく、軍港にて温存されることの方が長かったかもしれません。
この関係で、一説には艦内で待遇に不満を覚えるものが有ったとも聞き及びます。
その関係によるものかどうか、真相は謎ですが、
柱島錨地にて、昭和18年6月8日正午過ぎ、第3砲塔火薬庫を火元とした爆発事故により、陸奥は沈没してしまいました。
殉職者1000人以上を数える、大惨事でした。
周防大島町の東端にある、戦艦陸奥記念館は、陸奥に纏(まつ)わる多くの遺品が収蔵・展示されていますので、
機会がありましたら、是非、訪問してみて頂きたい、と確信する場所であります。
by RX-10
大日本帝国海軍戦艦敷島(しきしま、1900(明治33)年1月26日竣工、1947(昭和22)年解体)
「1896年(明治29年)の第10議会で可決した第二期拡張計画により建造された戦艦4隻(敷島、朝日、初瀬、三笠)の第1艦。イギリス・ロンドンのテムズ鉄工造船所で建造された。 日露戦争では主力艦として旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦、黄海海戦、日本海海戦と主な作戦に参加した。
旧式化により、1921年(大正10年)9月1日附で海防艦に類別変更される。第一次世界大戦後のワシントン軍縮会議により兵装、装甲の全てを撤去。練習特務艦となり佐世保港に繋留、使用されていた。太平洋戦争終戦時は推進器が撤去され佐世保海兵団所属の練習艦として相ノ浦に無傷で繋留されていた。1947年に佐世保で解体された。」
(出典:ウィキペディア「敷島(戦艦)」敷島 (戦艦) - Wikipedia)
「第二期拡張計画」リンクから記事に入りますと、「六六艦隊計画」という記事にヒットしますので、帝国海軍は、19世紀末から既に、米英仏ロに伍する戦力を保持し、日本四海を防衛せんとする戦略思想が定着していたものと推察します。
戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を中心に大艦隊建造を目的とした計画でしたが、当該目的を可能としたのは、
直前に遂行した日清戦争の戦勝により清帝国から得た賠償金の存在も大きかったとのことです。
このフネを始め、連合艦隊主力艦の存在がなければ、バルチック艦隊撃滅は不可能でしたから、
そのときその時の判断が、重要だ、ということを、このフネは物語っています。
by RX-10
大日本帝国海軍戦艦三笠(みかさ、1902(明治34)年3月1日竣工、記念艦として保存)
〽天の原 ふりさき見れば 春日なる 三笠の山に 出でしつきかも
(阿倍仲麻呂)
で御馴染みの奈良市内にある三笠山より、艦名を頂いたフネであります。
「春日」も、春日山でありまして、「奈良県奈良市、春日大社の東側にある標高497メートルの花山(はなやま)もしくは西隣の標高283メートルの御蓋山(三笠山・みかさやま)の通称」であることを、今更ながら知りました。
(ウィキペディア「春日山」春日山 (奈良県) - Wikipediaから引用)
三笠=御蓋
というワケです。
1905(明治37)年5月27日から28日に掛けて実施された日本海海戦をピークに、連合艦隊旗艦を務めあげた殊勲艦であります。
by RX-10
大日本帝国海軍戦艦朝日(あさひ、1900(明治32)年7月31日竣工、1942(昭和17)年5月25日戦没)
日露戦争では連合艦隊第1艦隊の中核、大東亜戦争では工作艦として活躍したフネです。
敷島型2番艦です。敷島型は1番艦敷島、2番艦朝日、3番艦初瀬、4番艦三笠でありましたが、
明治維新後の戦艦で、うち、2隻も大東亜戦争終了時で、曲がりなりにも健在であったのは、大変、幸運といえましょう。
(ただ、3番艦初瀬は、旅順港封鎖作戦時、触雷沈没しています。富士型2番艦八島も同様の最期でありました。)
さて、朝日につきましては、軍神広瀬武夫大佐が水雷長として座乗したフネとしても有名です。
「杉野はいずこ~!杉野はいずこ~!!」
という、永遠の若大将加山雄三様や、某国営放送「坂の上の雲」にてオリンピック選手でもあった藤本隆宏様の演じた英雄であります。
朝日艦内にあった広瀬武夫の自室は、大東亜戦争時も、記念として現状保存されていたそうですが、
工作艦として南方作戦を支援し、作戦が一段落して、朝日自身も修復が必要なため、内地帰還の途上、米軍潜水艦による攻撃により撃沈されました。
戦艦という戦列の中核の役割から、潜水艦救助艦、そして工作艦という支援任務に変わったとはいえ、
40年余りもの長い間、第一線にて祖国の防衛戦争を戦い続けた、その雄姿には、「尊厳」という言葉が最も相応しいでしょう。
by RX-10
大日本帝国海軍戦艦薩摩(さつま、1910年3月25日竣工、1920年9月2日、実艦標的として沈没)
我が国で初めて、国産の「戦艦」として建造された船です。
それまでは、同盟国である大英帝国に艦船の建造過程を学び取りながら、当該艦船の建造依頼をするというスタイルで
富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠
などの建造を実現してきましたが、英国紳士は、ニッポン人の武士道精神に感銘を受けたのか否かは分かりませんが、
大なり小なり、フネを造るための、様々なノウハウを、わが国に伝授して下さいました。
今から約140年前の1880年代から30年くらいの間、日英関係は、「テクノロジー」の伝播をやり取りする関係でも有ったのです。
1、1897年8月17日富士・・・輸入
2、1897年9月9日八島・・・輸入
3、1900年1月26日敷島・・・輸入
4、1900年7月31日朝日・・・輸入
5、1901年1月18日初瀬・・・輸入
6、1902年3月1日三笠・・・輸入
7、1906年5月20日香取・・・輸入
8、1906年5月23日鹿島・・・輸入
9、1907年1月14日筑波(巡洋戦艦)・・・国産初
10、1908年3月24日生駒(巡洋戦艦)
11、1910年3月25日薩摩・・・国産初
12、1911年3月11日安芸
13、1911年2月28日鞍馬(巡洋戦艦)
14、1909年11月1日伊吹(巡洋戦艦)
15、1912年3月31日河内
16、1912年7月1日摂津
17、1913年8月16日金剛(巡洋戦艦→戦艦)・・・輸入
18、1914年8月4日比叡(巡洋戦艦→戦艦)
19、1915年4月19日榛名(巡洋戦艦→戦艦)
20、1915年4月19日霧島(巡洋戦艦→戦艦)
21、1915年11月8日扶桑
22、1917年3月31日山城
23、1917年12月15日伊勢
24、1918年4月30日日向
25、1920年11月25日長門
26、1921年10月24日陸奥
27、1941年12月16日大和
28、1942年8月5日武蔵
この他、赤城や加賀、信濃のように別艦種として竣工したフネや、土佐、天城のように未製に終わったフネ、そして、紀伊、尾張のように計画のみで建造着手に至らなかったフネまで数えますと、
帝国海軍には、戦列艦たる30隻以上もの「戦艦」が、名を連ねていたのです。
これらの国防アイテムのみを俯瞰するだけでも、可成りの国家予算が投じられていたことがお判りいただけると思います。
このビジネスモデルは、1941(昭和16)年12月8日をもって陳腐化し、物理的には1945(昭和20)年8月14日に完全に破綻したことを、現代のニッポン人は、理解しなければならない、と思っています。
また、
何故、薩摩がディスプレイされていたのか、製作者の方に「想い」をインタビュー出来れば、なお深みが増すかもしれませんが、
「ワシントン軍縮条約によって廃艦が決定し、1923年(大正12年)9月20日、除籍。艦艇類別等級表からも削除された。
1924年(大正13年)9月2日、連合艦隊(連合艦隊司令長官鈴木貫太郎大将、第二艦隊司令長官加藤寛治中将)の主力艦艇が館山沖に集結した。高松宮宣仁親王(少尉候補生)達も練習艦隊旗艦八雲に乗艦し、研究射撃を見学する。旧薩摩は房総半島の野島埼沖(伊豆大島東方海面)において戦艦日向・金剛などの研究射撃標的艦となる。午後1時40分から日向と金剛による砲撃を実施した。つづいて長良型軽巡洋艦2隻(由良、名取)による研究射撃を実施したが、上部構造物の破壊にとどまった。 最終的に第5駆逐隊の松風型駆逐艦3隻(第三号《朝風》、第五号《春風》、第七号《松風》)が発射した魚雷3本により雷撃処分された。沈没時刻は午後3時50分。中村俊久(当時、東郷元帥副官)によれば、東郷平八郎元帥は「石見(元ロシア戦艦オリョール)は分捕艦だから別だが、国民の血税で漸く出来た艦を自らの手で沈めるのは見るに忍びない」として「薩摩」の沈没には立ち会わなかったという。」
(出典:ウィキペディア「薩摩(戦艦)」薩摩 (戦艦) - Wikipedia)
という記述から、”豈(あに)図(はか)らんや”という気持ちになります。
以上、湯郷温泉鉄道模型館&レトロおもちゃ館に展示されている、わが国の近代艦船の紹介記事を流用し
スマホカメラ撮影分とSONYのRX-10撮影分との比較を試してみました。
ピンボケした写真はボツとしたため、比較できなかったフネもありますが
総じて、詳細な画像を入手できていたことに驚きます。
やっぱり、カメラは良いカメラであるべきだ、と再確認致しました。
湯郷温泉鉄道模型館&レトロおもちゃ館の展示物
ひきつづき、「ゆっくりじっくり」お楽しみ頂きたいと存じます。
<所在地・連絡先>
〒707-0062岡山県美作市湯郷312
TEL・FAX:0868-72-0061
<開館時間>
9:30~17:00
(予約にて延長可)←凄いですね!!
<休館日>
毎週 水曜日
(祝日の場合は翌日)
<アクセス>お車の場合・・・中国自動車道美作ICより10分
※本館前は北からの一方通行ですので、ご注意下さい。
鉄道の場合・・・JR姫新線林野駅より徒歩40分(公共交通機関のご利用がお勧めです。)
(引用・参照HP:http://www.spa-yunogo.or.jp/mokeikan/index.html)
「湯郷温泉てつどう模型館&レトロおもちゃ館」ワールドは、大変、奥深い世界が存在していることを、ここに表明致します。