大日本帝国の艦船_1黎明期0020東(あづま)艦 | エコノミライ研究所のブログ

エコノミライ研究所のブログ

2015年2月16日に設立した任意団体です。
ありとあらゆる「ミライ」について考える団体ですが、主に
「E」lectric「V」iecle(電気自動車)を通じて
1、生活の未来
2、文化の未来
3、社会の未来
を探求して行きます。

ウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「日の本(ひのもと)」が、地球上の人類社会でトップグループを維持するために必要とされた「投資」物件である、戦艦をはじめとする、海上艦艇の歴史を紐解くシリーズを始めさせて戴いています。

 

1945年8月14日をもって無力化された

 

とはいえ、21世紀に入っても、「イージスアショア」計画が頓挫(とんざ)し、再び、イージス艦計画の延長線上に組み込まれることになりそうな現代「日本国」にとっても、参考となる「歴史の勉強」である、と確信いたします。

 

「ミライ」

 

への投資が、<いま>を生きる<ひと>にとって、どのような意味があるのかについて、考える切欠ともなる

 

思索の旅

 

幕末戊辰戦争前後から脈々と受け継がれてきた、「日の本」の海軍戦力に欠かせない、水上艦船についての紹介シリーズであります。

 

今回紹介するフネは、南北戦争当時、仏蘭西が南軍向けに建造販売予定のフネが戦争終結と共に販売中止となり、プロイセンと戦争中のデンマークに売却されたものの、戦争終結と共にデンマークから受け取り拒否され仏蘭西に戻り、係留されていたところ、アメリカ南軍に奪取されたことをルーツとし、さらに、幕末の榎本軍か新政府のどちらに売るのか保留されたという、非常に異色の歴史を辿った

 

東(あづま)艦

 

についてです。

 

 

 

 
東艦(あずまかん、旧名ストーンウォール(CSS Stonewall))は、日本海軍の軍艦。 艦名の東の意味は吾妻、吾嬬などと共に全てあづま(あずま)と読み、京都から東の国を指す汎称になる。

本艦を指すことが多い呼称で甲鉄艦(こうてつかん)があり、一般には鋼鉄製装甲の軍艦(装甲艦、Ironclad)を指す言葉で固有名詞ではないが、幕末から明治にかけての日本史でこれが用いられる時は本艦を指す事が多い。

概要
外洋航行能力を持ちながら装甲で覆われた日本の軍艦で、日本海軍の草創期の艦である。

艦型
マスト2本のいわゆるブリッグと呼ばれる船である。 左は本艦の装甲配置を示した図である。本艦の基本構造は艦首に鋭い形状の衝角(ラム)を持つ木造船体に2本の帆走用マストと一本煙突を持つ装甲ブリッグである。船体上の2本のマストには本格的な帆走設備が整えられており、蒸気機関が発明されたとは言え機関技術の信頼性がこの時期では未知数で、長期航海時には帆走を行うのが普通であり、本艦の帆の総面積は750平方メートルもあった。艦首水面下の衝角はコードネームの「スフィンクス(Sphinx)」の名の通り、スフィンクスの顎のように艦首の水線面から、先端部を鉄で皮膜した衝角が水中に7mも突出していた。

これは、後の「リッサ沖海戦」でも行われた「衝角攻撃(ラミング)」を行うために特化した設計である。衝角攻撃とは、大砲が発明されていない時代に敵艦の船体を効果的に破壊するために舳先を相手の舷側に突っ込ませて破壊する攻撃方法で、追突した時の衝撃よりも自艦をバックさせて舳先を引き抜いた時に出来る大破口からの浸水により短時間で相手を撃沈できる戦法である。大型の大砲が開発されたとは言え、この時期の砲弾は性能が低く、効果的に敵艦を無力化するには衝角攻撃が主流であった。

他に船体形状で他にも目を引く艦尾形状も特徴的で、当時としては非常に珍しかったクルーザースターン(巡洋艦型船尾)を採用していた。水面下では、舵と推進軸の周辺形状にはツイン・スケグを採用していた。ツイン・スケグとは、船底部からスクリュー軸を伝うように垂直に伸ばされた鰭状の構造物を設け、そのままスクリュープロペラの背後に主舵を配置する形式の事で、スクリューで生じた水流の真後ろに舵が配置されるために舵効きが良く、また、スケグがスクリュー軸を囲って守るのでスクリューに異物が巻きついて行動不能になるのを防ぐ効果もあった。

兵装
本艦の主砲にはアームストロング砲を採用している。艦首砲郭部には300ポンドアームストロング前装式滑空砲(口径27.9cm)を単装砲架で1基を配置し、重量136㎏の砲弾を撃つ事が出来た。船体中央砲郭部に70ポンドアームストロング前装式ライフル砲(口径12.7cm)を単装砲架で片舷1基ずつ計2基を装備し、重量32kgの砲弾を撃つ事が出来た。しかし、砲弾の性能が良くなく、火薬庫等に命中しないかぎり敵艦を大破させるのは難しかった。後に米国製のパロット砲に備砲を換装されている。

砲郭部の床面にはピポッティング・スライド・キャリッジ(Pivotting Slide Carriage)と呼ばれる円弧状のレールが敷設され、その上に置かれた砲架を旋回・移動させる事により、砲郭から砲身を出した際に砲門を支点として砲尾部を扇状に動かすことにより広い射界が得られた。これにより少ない門数でも迅速に火砲を敵艦に向けられる工夫であった。

更に砲架の設計も新型で、従来の砲架の仰角は10度程度であったが、本艦の物はスライド・キャリッジと呼ばれる形式の砲架により、仰角は一挙に倍以上の25度が可能となり射程の延伸が可能となった。また、砲廓に設けられた砲門には戦闘時に開口部から敵弾が飛び込むのを防ぐために装甲板と同じ材質の蓋が取り付けられ、装填時に開口部を塞いだ。

装甲
本艦の防御要求は対15インチ砲防御を目標として設計され、北軍の持つあらゆる種類の艦砲に対して貫通されない防御力が要求された。

砲郭部の形状は前後ともに横方向に広い楕円形をしており、当時の低い工作技術で複雑な曲線の船体に装甲板を満遍なく貼り付けるフランスの建艦技術の高さが窺える。船体甲板上の艦首側と中央部に主砲を収める楕円筒形の砲郭(ケースメイト)が設けられた。砲郭部には船体構造部とは別個に装甲板を装着するためのコーキングと呼ばれる緩衝材が構造材から上に貼り付け、その上にアーマーパッキング(砲弾が命中した際にショックを和らげるための緩衝材)として厚さ80mmのチーク材が更に貼り付けられた。このアーマーパッキングに装甲板を専用のボルトで螺子止めして装着される。本艦の砲郭部には装甲板の材質は粘り気のある錬鉄製で前述のアーマーパッキングの上から厚さ102mmから140mmの装甲を貼った。同時期のデンマーク海軍の装甲艦「ペダー・スクラム(1866年竣工、3,300トン)」の砲廓部の装甲が120mmであることを考えれば本艦は排水量が2倍の艦と同等の装甲厚を持っていた事が判る。

この当時の艦体の防御様式は水線部は装甲板を舷側の全周に装着する全体防御方式が主流であった。本艦は高さ2.7mの装甲板を水線部を0として上方向に1.5m、水線下に1.2mもの範囲で舷側を覆っていた。防御厚は船体中央部は125mmで艦首と艦尾の水線末端部に向かって90mmにテーパーした。さらに、その装甲板の上から厚さ約32mm(1.25インチ)の装甲を貼る複合装甲を採用していた。

後に北部合衆国軍が開発したモニター艦「モニター (USS Monitor)」の搭載砲は11インチ(279 mm)砲でしかない事を考えれば、本艦の防御能力は高い物であった。

機関
本艦の主機関はル・アーヴルのマゼリン鉄工所でボイラーとレシプロ機関が共に製造されて搭載された。マゼリン式チューブラーボイラー2基とマゼリン式水平型レシプロ機関2基2軸が組み合わせられ、推進機関であるレシプロ機関は1基あたり600馬力の出力があり、それを2基搭載されたので最大出力は1,200馬力を発揮できた。推進軸に取り付けられたスクリュープロペラは一枚が推進軸に対して斜め45度に傾けられた長方形の板状の4枚プロペラで直径は約3.6mであった。本艦は公試において最高速力10.8ノットを発揮し実用速力は10.5ノットとした。同時に燃料消費量から計算して石炭200トンを満載して9ノットで1,200海里を航行できると計算された。

艦歴
本艦は南北戦争中にアメリカ南部連合の同盟国だったフランスで建造された。もともとは南部連合がボルドーにあったアルマン・ブラザース社造船所に発注したコードネーム「スフィンクス(Sphinx)」と呼ばれていた装甲艦で、同型艦には「キーオプス(Cheops)」があった。本艦の設計者はM・アルマンで、1863年に起工され、翌1864年6月に進水式を行い、建造途中に「ストーンウォール(CSS STONEWALL)」と名付けられ同年中に竣工した。本艦は当時の南軍において数少ない有力艦としてアメリカへの到着が心待ちにされていたが、アメリカ北部合衆国からフランス政府へクレームが付いて引渡し契約が破棄されてしまった。

そこで2艦は売りに出され、当時戦争中であったプロイセンとデンマークに渡った。デンマークに売却されたのが本艦で「ステークオザー(Staerkodder)」と命名されるも、デンマーク到着前に戦争が終結。受け取りを拒否された艦は「オリンダ」となりフランスへ戻された。だが、その途中の1865年1月24日にアメリカ南軍がこれを奪取。「ストーンウォール」となるもハバナ入港後北軍に包囲されたためキューバに売却されてしまった。戦後、アメリカはそれを買い戻すも、繋留状態に置かれていた。

本艦の防御は、当時のフランス海軍の「ラ・グロワール」やイギリス海軍の主力艦「ウォーリア」のどちらに対しても耐えられる性能を持っていた。

なおプロイセンに売却された姉妹艦の「キーオプス」は、「プリンツ・アダルベルト(Prinz Adalbert)」と改名されプロイセン海軍の戦艦第一号として就役した。

購入
慶応3年(1867年)に小野友五郎を代表とする江戸幕府の訪米使節がアメリカに「ストーンウォール(CSS STONEWALL)」買取を約束したが、翌慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発して幕府が瓦解すると、新政府側でもストーンウォールを買い取りたいと言い出した。旧幕府側はこれに反発。横浜に至ったアメリカ側は、戦争の決着がつくまでストーンウォールをどちらにも売る気はないと、局外中立を宣言した。しかし奥羽越列藩同盟が崩壊し、榎本武揚ら旧幕府海軍が蝦夷地へ渡って所謂「蝦夷共和国」を樹立させた頃には、明治政府が新たなる政府であることを認めて局外中立を撤廃。まだまだ財政が厳しかった明治政府は躊躇したが、明治2年(1869年)2月3日ストーンウォール(甲鉄艦)購入に踏み切った。

戊辰戦争
旧幕府海軍は旗艦の開陽丸を座礁で失った上、明治政府のストーンウォール(甲鉄艦)購入の知らせが箱館に届き危機を感じた榎本らは軍議の上、同艦への移乗攻撃(アボルダージュ)による奪取作戦を計画、宮古湾海戦が起こった。榎本らは甲鉄艦の装甲を貫ける新型砲弾を開発しており、船に積んでいたと言われるが、天候などの不運も重なりその威力は試せないまま奪取に失敗した。

明治2年3月8日(1869年4月19日)、甲鉄、陽春丸、春日丸、飛龍丸、第一丁卯、戊辰丸、晨風丸、豊安丸の7隻が品川を出港、函館へ向かった。 本艦は宮古湾海戦で旧幕府軍艦を追撃した後、青森に待機し、同年4月9日の新政府軍上陸に際して箱館湾に出撃。箱館湾海戦を経て旧幕府軍の降伏に至った。

日本海軍
明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日(新暦8月24日)に小艦隊3隊を編成、甲鉄と乾行の2隻は中島四郎(甲鉄に乗艦)の指揮で横浜港に派遣された。 翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた。

明治4年5月(1871年6月から7月)日進、甲鉄、乾行、第二丁卯、龍驤、富士山、第一丁卯で小艦隊を編制、 真木長義中佐が日進、甲鉄、乾行、第二丁卯4艦の指揮をとった。 10月28日(1871年12月10日)、海軍規則の制定により甲鉄艦は三等軍艦(中艦)に分類された。 12月7日(1872年1月16日)には艦名が甲鉄艦から東艦に改められた。 このページでは以降東と記す。

明治5年
明治5年4月12日(1872年5月18日)、日進、東、鳳翔が艦隊に編入された。 5月2日(1872年6月7日)、東は艦隊から除かれた。

10月5日(1872年11月5日)、艦船等級の改正により三等以上は大艦に分類されるが、東は三等軍艦(中艦)に分類された。

1873年
1873年(明治6年) 1月13日、東は艦隊に編入された。 2月13日、各港に常備艦を配置することになり、東と日進は横浜港に配置されることになった。 日進が修復艦となったため、4月22日に東の常備港は横浜港から品川に変更された(横浜港は雲揚が常備艦となる)。 6月30日時点で中艦隊は雲揚、日進、春日、龍驤、東、鳳翔、筑波の7隻で編制していた。

1874年
佐賀の乱
1874年(明治7年) 2月9日、東は品川を出港した。 2月13日、佐賀の乱の鎮圧のために東、雲揚の九州回航が命令された。 6月3日、東は長崎から品川に帰着した。

6月30日時点の中艦隊は雲揚、日進、春日、龍驤、東、鳳翔、第二丁卯で編制されていた。

台湾出兵
7月30日東は龍驤の清回航に同行することになり、同日龍驤に先立ち出港し8月15日長崎に到着したが、20日に暴風のために損傷し9月14日長崎発、20日に横須賀に帰港した。 または、8月19日に長崎港に停泊中に台風により沈没したが、程なく浮揚されて横須賀造船所で復旧修理の上、復帰した。

1875年
1875年(明治8年)6月30日時点で中艦隊は雲揚、日進、春日、龍驤、東、鳳翔、第一丁卯で編制されていた。 10月28日、艦隊は編制を解かれ、東は艦隊から除かれたを外れた。 同日、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官は中牟田倉之助少将、西部指揮官は伊東祐麿少将が任命され、 龍驤、東、鳳翔、雲揚、富士山、摂津、高雄丸、大坂丸は東部指揮官所轄となった。

1876年
1876年(明治9年) 4月8日(または4月4日)、三等軍艦(小艦)に分類された。

7月20日、東は行幸の迎えとして金田湾に回航、 7月22日、横浜に帰港した。

1877年
1877年(明治10年) 1月24日、行幸出発に際し、東、鳳翔、孟春、千代田形の4隻で小艦隊を編成して金田湾まで見送り、帰途は蒸気機関運転での艦隊運動訓練を行った。

西南戦争
1877年(明治10年)の西南戦争では瀬戸内海の警備任務についた。 2月19日、東、日進、浅間の3隻に神戸港回航が令達され、 東は同日午後6時に横浜港を出港した。 8月19日午後2時、東は神戸港から横浜港に帰港した。

修理
9月23日に横須賀に回航、 9月25日から横須賀造船所で修理を行った。 翌1878年(明治11年)中はボイラー他の修理のために横須賀に留まった。

1878年
1878年(明治11年) 2月19日、東海鎮守府所轄の東を修復艦とし、横須賀造船所所轄に変更された。

1879年
1879年(明治12年) 5月3日に修理は完了した。 (なお『海軍省報告書』の艦船修復の項では8月31日修理完了とされている。)

常備艦
それより前の4月30日、東は東海鎮守府所轄常備艦と定められ、 5月7日横浜港に帰港した。 5月22日横須賀に回航、同地で塗装塗り替えをし、6月12日横浜に帰港した。 6月23日横浜を発着し艦隊訓練を行った。 コレラ流行により、船舶検査をするために7月3日横須賀に回航した。 7月5日横須賀出港、以降は天城と交代しながら東京湾内、横浜、横須賀、浦賀で碇泊を繰り返し、8月20日横浜港に帰港、8月26日品川沖に回航した。 10月1日品川発着で艦隊訓練を行った。

修理
10月9日横須賀に回航、 12月24日に入渠、 25日から修理を開始し、 30日に出渠した。

1880年-1883年
1880年(明治13年) 1月6日から14日まで入渠した。 11月11日まで常備艦として横須賀港碇泊していた。

修復艦
11月12日に修復艦に指定された。

1881年(明治14年) 6月29日から横須賀造船所で修理を行った。 また『海軍省報告書』によると、1879年(明治12年)12月25日から1881年(明治14年)8月22日まで横須賀造船所で修理を行った。

1883年(明治16年) 6月21日に横須賀造船所で修理を開始した。

除籍
購入から17年後の1888年(明治21年)に除籍された。 解体のため民間に売却された東艦の装甲板は上質であったので浅草火力発電所の変圧器の鉄芯に再利用された。

その他
本艦と混同されることがあるストーンウォール・ジャクソン号(CSS Stonewall Jackson)は1862年に配備され、同年自焼した南軍の外輪式河川砲艦である。

艦長
船将
中島四郎(佐衡):明治2年(1869年)
艦長
(艦長代)福島敬典(福嶋彌太六) 大尉:明治4年5月17日(1871年7月4日) - 明治4年6月
伊東祐亨 少佐:1872年12月14日 - 1875年11月10日
澤野種銭 少佐:1875年11月10日 -
沢野種鉄 中佐: - 1878年4月8日
(艦長代)松村正命 少佐:1878年4月8日 -
井上良馨 中佐:1879年8月19日 - 1880年6月14日
山崎景則 少佐:1880年6月14日 - 1881年7月7日
瀧野直俊 中佐:1883年8月16日 - 1885年11月7日
国友次郎 中佐:1885年11月7日[74] - 1886年6月23日
伊地知弘一 大佐:1887年4月19日 - 1887年6月11日
国友次郎 大佐:1887年10月27日 - 1888年1月28日(旧東艦残務取扱)
 


<基本情報>

建造所    アルマン兄弟造船所(フランス・ボルドー)
運用者     大日本帝国海軍
艦種    甲鉄艦
軍艦(戦艦)
艦歴
起工    1863年
進水    1864年6月21日
竣工    1864年10月25日
除籍    1888年1月28日
その後    解体
改名    甲鉄艦 → 東艦
要目
排水量    計画:1,358.43トン
または 1,800トン
全長    60.00m
水線長    55.70m、または55.78m
垂線間長    47.44m、または47.77m
最大幅    10.00m
深さ    5.20m
吃水    平均:4.40m
または15 ft 6 in (4.72 m)
ボイラー    マゼリン式石炭専焼缶 2基
(管入缶 2基)
主機    マゼリン式水平直動レシプロ 2基
または 直立直動機械
推進    4翼スクリュー、2軸
出力    1,200IHP
帆装    帆面積:750m2
速力    常用:10.5 ノット (15 km/h)
試運転:10.8ノット
燃料    石炭:常備95トン
満載200トン(または700,000ポンド)
航続距離    1,200カイリ / 9ノット
乗員    慶応4年1月定員:49名
1873年10月定員:135名+鍛冶長2名
1883年8月定員:130名、練習員約100名
兵装    竣工時
(口径28cm)300ポンド・アームストロング前装式滑腔砲 1門
(口径12.7cm)70ポンド・アームストロング前装式ライフル砲 2門
1871年
(27.9cm)300ポンド前装滑腔砲 1門
パロット16.5cm前装ライフル砲 4門
6連装ガトリング砲 1基
装甲    舷側:125-90mm錬鉄 +1.25in(32mm)鉄板
ケースメート:140-102mm
その他    信号符字:GQBU(1886年-)

<出典:ウィキペディア「東艦」東艦 - Wikipedia

 

紹介は以上です。このような感じで、次回も続けます。

 

次回もお楽しみに。

 

エコノミライ研究所

所長 楊田芳樹

 

このシリーズ

【新シリーズ】大日本帝国の艦船_ー0001シリーズを始めるに当たって 2021-02-22 07:00:00

 

【新シリーズ】大日本帝国の艦船_0000艦艇一覧 2021-03-01 07:00:00

 

 

前の記事

大日本帝国の艦船_1黎明期0019蟠竜丸(ばんりゅうまる) 2021-07-12 07:00:00

 

次の記事

大日本帝国の艦船_1黎明期0021春日丸(かすがまる) 2021-07-26 07:00:00

 

 

前のシリーズ

湯郷温泉てつどう模型館&レトロおもちゃ館に展示されていた世界の艦船から1米英 2020-12-14 07:00:00

 

大日本帝国海軍艦艇一覧(だいにっぽんていこくかいぐんかんていいちらん)は、明治維新から太平洋戦争(大東亜戦争第二次世界大戦)終結の間に、大日本帝国海軍が保有または、保有を計画した艦艇の一覧である。現段階で、この一覧は全艦艇の網羅には程遠いものである。

(中略)

なお、艦種類別及び等級については、基本的に竣工時とする。終戦までに廃止された類別についてはその限りではない。また特記すべき変更がある場合はより重要と思われる類別に分類し、航空母艦への改造など変更前後の両方とも重要な場合は両方に分類する。日本海軍の艦種類別の変遷大日本帝国海軍艦艇要目解説については、別稿で記述する。未成艦・計画艦は艦名を斜体で表記する。」

(出典:ウィキペディア「大日本帝国海軍艦艇一覧」大日本帝国海軍艦艇一覧 - Wikipedia

 

このような記述を元に、歴史的に古いフネから、艦種ごとに紹介するスタイルにて始めさせて戴いています。

 

紹介する流れは、以下の通りです。

 

☆今回☆1    黎明期
1.1    軍艦
1.2    運輸船
1.3    その他
2    艦艇
2.1    軍艦
2.1.1    戦艦
2.1.1.1    一等戦艦
2.1.1.2    二等戦艦
2.1.1.3    等級廃止後
2.1.2    巡洋戦艦
2.1.3    航空母艦
2.1.4    巡洋艦
2.1.4.1    等級制定以前(スループ)
2.1.4.2    等級制定以前(コルベット)
2.1.4.3    等級制定以前(巡洋艦)
2.1.4.4    等級制定以前(戦利巡洋艦)
2.1.4.5    等級制定以前(装甲巡洋艦)
2.1.4.6    等級制定以前(防護巡洋艦)
2.1.4.7    一等巡洋艦(装甲巡洋艦)
2.1.4.8    一等巡洋艦(重巡洋艦)
2.1.4.9    二等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.4.10    二等巡洋艦(軽巡洋艦)
2.1.4.11    三等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.5    水上機母艦
2.1.6    水雷母艦
2.1.7    潜水母艦
2.1.8    水雷砲艦
2.1.9    通報艦
2.1.10    敷設艦
2.1.10.1    急設網艦
2.1.11    練習戦艦
2.1.12    練習巡洋艦
2.2    駆逐艦
2.2.1    等級制定以前
2.2.2    一等駆逐艦
2.2.3    二等駆逐艦
2.3    潜水艦
2.3.1    一等潜水艦
2.3.1.1    海大型潜水艦
2.3.1.2    巡潜型潜水艦
2.3.1.3    その他の一等潜水艦
2.3.2    二等潜水艦
2.3.3    三等潜水艦
2.3.4    第一次世界大戦戦利潜水艦
2.3.5    特殊潜航艇・特攻兵器
2.3.6    実験艦・計画艦
2.4    砲艦
2.4.1    河用砲艦
2.5    海防艦
2.5.1    旧定義艦
2.5.1.1    一等海防艦
2.5.1.2    二等海防艦
2.5.1.3    三等海防艦
2.5.1.4    等級廃止後
2.5.2    新定義艦
2.6    輸送艦
2.6.1    一等輸送艦
2.6.2    二等輸送艦
2.7    水雷艇
2.7.1    一等水雷艇
2.7.2    二等水雷艇
2.7.3    三等水雷艇
2.7.4    日清戦争戦利艇
2.7.5    昭和期の水雷艇
2.8    掃海艇
2.9    駆潜艇
2.10    敷設艇
2.10.1    二等敷設艇
2.10.2    三等敷設艇
2.11    哨戒艇
3    特務艦艇
3.1    特務艦
3.1.1    工作艦
3.1.2    運送艦
3.1.2.1    給油艦
3.1.2.2    給炭艦
3.1.2.3    給炭油艦
3.1.2.4    給兵艦
3.1.2.5    給糧艦
3.1.3    砕氷艦
3.1.4    測量艦
3.1.5    標的艦
3.1.6    練習特務艦
3.2    特務艇
3.2.1    掃海特務艇
3.2.2    駆潜特務艇
3.2.3    敷設特務艇
3.2.4    哨戒特務艇
3.2.5    海防艇
3.2.6    電纜敷設艇
3.2.7    潜水艦母艇
3.2.8    魚雷艇
3.2.8.1    試作魚雷艇
3.2.8.2    輸入魚雷艇
3.2.8.3    T-1型
3.2.8.4    甲型魚雷艇
3.2.8.5    乙型魚雷艇
3.2.8.6    隼艇
3.2.8.7    太平洋戦争戦利魚雷艇
4    特設艦艇
4.1    特設軍艦
4.1.1    特設航空母艦
4.1.2    特設水上機母艦
4.1.3    特設航空機運搬艦
4.1.4    特設巡洋艦
4.1.5    特設敷設艦
4.1.6    特設急設網艦
4.1.7    特設潜水母艦
4.1.8    特設水雷母艦
4.1.9    特設掃海母艦
4.1.10    特設砲艦
4.1.10.1    砲艦兼砕氷艦
4.1.10.2    砲艦大
4.1.10.3    砲艦小
4.1.10.4    砲艦兼敷設艦
4.2    特設特務艇
4.2.1    特設捕獲網艇
4.2.2    特設防潜網艇
4.2.3    特設敷設艇
4.2.4    特設駆潜艇
4.2.5    特設掃海艇
4.2.6    特設監視艇
4.2.7    特設工作艦
4.2.8    特設港務艦
4.2.9    特設測量艦
4.2.10    特設電纜敷設船
4.2.11    特設病院船
4.2.12    特設救難船
4.2.13    特設運送艦船
4.2.13.1    給兵船
4.2.13.2    給水船
4.2.13.3    給糧船
4.2.13.4    給炭船
4.2.13.5    給炭油船
4.2.13.6    給油船
4.2.13.7    雑用船
5    雑役船
5.1    工作船
5.2    海洋観測船
5.3    交通船
5.4    救難船兼曳船」

(出典:同上)

 

黎明期の軍艦
※明治20年まで、軍艦の正式名には「艦」が付く(和泉丸、河内丸、陽春丸を除く)。例「富士山艦」「摂津艦」など

0007富士山(富士 [I])
0012摂津 [I]
0002和泉丸(和泉 [I])
0004武蔵 [I]
0003河内丸(河内[I])
0020東(←甲鉄)
0013千代田形(千代田 [I])
春日 [I](→雑役船)
0010龍驤 [I]
0014第一丁卯
0015第二丁卯
0016乾行
0017孟春
0018雲揚
筑波 [I](→巡洋艦→三等海防艦)
0010浅間 [I]
0008清輝
0019雷電(←蟠竜丸)
0005陽春丸
海軍艦籍に入っているという資料もあるもの

延年丸
電流丸
運輸船
※初期の運輸船は兵装を持つ戦闘艦艇でもあるのでここに上げる。

0001朝陽丸
翔鶴丸(翔鶴 [I])
0009観光丸
飛隼丸
飛龍丸(飛龍 [I])
0006咸臨丸
鳳凰丸
立象丸
快風丸
開運丸
長鯨丸(長鯨[I])
大坂丸
虹橋船
行速丸
東京丸
第一利根川船(→第一利根川丸)(利根 [I])
高雄丸(高雄 [I])
第二利根川船(→第二利根川丸)(利根 [II])
沖鷹丸(冲鷹[I])
千早号(千早[I])
函容丸
樺太丸
華陽丸


練習艦
肇敏(←春風丸)
石川
館山(←第一回漕丸)

 

(出典:同上)
満珠型:満珠 [I] - 干珠 [I]
日清戦争戦利艦:敏捷


御召艦
迅鯨 [I](外海用御召艦)
蒼龍 [I](内海用御召船、蒼龍丸→蒼龍艦)