新元号「令和」の考案者といわれる万葉集研究の権威・中西進氏(大阪女子大名誉教授)が「令和」がもつ本当の意味について語っている(日経新聞2019年5月1日朝刊)。

 

  「“令(うるわ)しい”という概念です。“善”と並び、美しさの最上級の言葉です。これと“和”と組み合わせることで、ぼんやりした平和ではなく、うるわしい平和を築こうという合言葉になる

 

  「天皇陛下(30日退位された上皇さま)が“平成は戦争のない30年間だった”とおっしゃいましたが、それをグレードアップするのが今日の使命ではないか。“令”なる“和”の実現を願ったのがこの元号でしょう

 

 外務省は「令和」を「ぼんやり」した英語訳「Beautiful Harmony(美しい調和)」として世界各国に通知した。だが、「考案者」の中西氏の意図が「はっきり」した英語訳となる「Beautiful Peace(うるわしい平和)」のほうがよかったのではないか、小生などはそう思う。

 

 そのうえで中西氏は「令和の時代の日本はどんな国を目指すべきでしょうか」という問いに以下のように答えている。

 

  「明治の前半まで、日本は外に膨張せず、小国であれという主張もありました。中江兆民はその代表です。小国として賢く、ほこりをもってふるまおうと。ところが、日本は途中から自らが大国だと誤解をした。今、もう一度、小国主義の議論がしたいものです

 

 「小国主義」の議論は、明治の前半、明治憲法や日清戦争をめぐる議論に始まる。大正、昭和初期には海外植民地からの撤退を説く「小日本主義」に展開した。その後、太平洋戦争での敗戦を経て、小国主義は戦争放棄、平和主義、基本的人権の確立をうたう日本国憲法に結実する。

 

西南戦争(明治10年)の後、日清戦争(明治27年)が始まるまでの明治の前半、日本は富国強兵、領土拡張の「大国主義」か、中江らの外への膨張を否定して国際協調を唱える「小国主義」か、盛んに議論された。中江らは、明治政府の自由民権運動への弾圧によって押しつぶされ、その後明治27年(1894年)に日清戦争が起きる。日本が朝鮮半島の支配権を清国と争って勝ったが、これが日露戦争、韓国併合を経て日本の「大国主義」に拍車をかける結果となった

 

知られていないが江戸城の無血開城に導いた勝海舟も「小国主義」だった。勝海舟(麟太郎)は明治32年(1899年)まで生き、明治維新後の伊藤博文らの薩長政治に鋭い批判を浴びせてきたその一つが日清戦争だった。「脱亜論」の福沢諭吉は、進歩を妨げ立ち遅れた清国との戦いを「文明と野蛮の戦争なり」として日清戦争を肯定した。国民も対清戦争一色に染まったが、勝海舟は独特な言い回しで日清戦争に反対した。以下は江藤淳・松浦玲編「氷川清話」(講談社学術文庫)による勝海舟の談話だ(以下読み下し、ひらがなに修正)。

 

 「日清戦争は、おれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰わないじゃないか。たとへ日本が勝ってどーなる」と述べ、日清戦争の開戦時に読んだ自らの漢詩を紹介した

 

  隣国(と)兵を交じうる日 その軍(いくさ)さらに名無し 憐れむべし鶏林の肉 割きてもって魯英に与う

 

 隣国は清国、魯はロシア、英はイギリス、鶏林の肉とは朝鮮半島をさす。海舟は「日本と清国の戦争に意味はない。戦争して互いに弱れば、朝鮮半島の支配権をロシアやイギリスに与えることになる」という意味だろうか。

 

これにつづく以下の海舟談話は彼の弟子、坂本龍馬の「通商国家」の構想にもつながる。

 

 「日本は支那と組んで商業なり工業なりやるに限るよ

 「一体支那5億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔時から日本の師ではないか

 

 日清戦争の前、勝海舟は「支那は日本の師」と同じような言葉を朝鮮半島にも使っている。

 

 「朝鮮といえば半亡国だとか、貧弱国だと軽蔑するけれども、おれは朝鮮も既に蘇生の時期が来ていると思うのだ。」「朝鮮を馬鹿にするのも、ただ近来の事だよ。日本文明の種子はみな朝鮮から輸入したのだからのう」「朝鮮人も日本のお師匠様だったのさ

 

 中江や勝の「小国主義」は日露戦争から韓国併合、満州事変、満州国支配へと突き進む「大国主義」にかき消されて行く。ただ大正デモクラシーの時期、イギリスの「小英国主義」に範をとった「小日本主義」の議論が少数派だが、確かにあった

 

小日本主義」は、経済雑誌「東洋経済新報」(現・週刊東洋経済)の歴代主幹だった三浦銕太郎や石橋湛山(自由民主党2代目総裁・元首相)らによって展開された。なお筆者も東洋経済新報社の記者、編集者として湛山らの思想的薫陶を得ているものである。

 

今回は紙幅の都合上、「小日本主義」の詳細には触れないが、『石橋湛山評論集』(岩波文庫)『石橋湛山評論選集』(東洋経済新報社)に従って「東洋経済新報」に掲載された「小日本主義」に関連する湛山論文を紹介する

 

日本の帝国主義への批判(朝鮮、台湾、樺太などの放棄を主張、支那やシベリアへの干渉を批判)―「我に移民の要なし」(大正2年)、「青島は断じて領有すべからず」(大正3年)、「禍根を残す外交政策」(大正4年)、「陸軍国家を危うくす」(大正9年)、「一切を棄つるの覚悟」(大正10年)、「大日本主義の幻想」(大正10年) 

 

民族自決への理解―「過激派政府を承認せよ」(大正7年、シベリア出兵への批判)、「鮮人暴動に対する理解」(大正8年、朝鮮の三・一独立運動への理解)、「満蒙問題解決の根本方針如何」(中国の排外排日運動への理解、昭和6年)

 

ファシズム(全体主義)への抵抗―「近来の世相ただ事ならず」(昭和6年、浜口雄幸首相の暗殺事件)、「非合法傾向いよいよ深刻化せんとす」(昭和6年)、「言論を絶対自由ならしむるほか思想を善導する方法はない」

 

そして敗戦、日本はすべての植民地を失い湛山らの「小日本主義」の主張は結実する。湛山は終戦直後、昭和20年(1945年)8月、「更生日本の門出」を書いた。湛山は、海外領土を失い軍需産業が制限を受けても日本国民の何の妨げにもならない、平和に尽くし科学精神を徹底すれば日本の「前途は実に洋々たり」と説いた

 

 令和元年からおよそ30年後、2053年の日本の人口は9924万人と1億人を割り込む(平成27年将来人口推計)。労働力のもとになる15歳~64歳の生産年齢人口は5119万人へ平成27年から2600万人も減少、65歳以上の老齢人口は3766万人、人口の38%になる。

 

外国人労働力の流入やイノベーションが起きなければ日本のGDPも相対的に縮小する。GDPは現在第3位だが、令和の時代、アジアではインド、インドネシア、ロシア、ベトナムに追い抜かれるのではないか。世界に占める日本のGDPシェアも現在の6%から2~3%になる

 

歴史に造詣が深い令和の考案者は「小国とは、どこに転がされても光っている真珠のような国」だという。中西氏は、「大国」の地位を失う令和の時代、「大国主義」を捨て身の丈に合った「小国主義」の日本をどのように構想するかを問うているのだ。筆者も深く考えたみたい。