携帯電話のネットニュースで選挙速報を見た。

テレビをつけて、確認した。

 

そして、頭の中で流れてきた曲

「人にやさしく」 The Blue Hearts

 

「気が狂いそう」で始まる出だし。

思わず、歌詞を検索して再確認しました。

 

聞こえてほしい、あなたにも

ガンバレー!!!!

 

 

 

 

今年の夏も猛暑続きですが、

みなさま体調を崩さず、乗り切っていきましょう。

 

さて、我が家も今の家で、3度目の夏ということで、

今年こそは、リビングの西日対策をしていこうと思います。

 

まずは、窓ガラスに遮熱フィルムを張りまして、

次に、ベランダに日よけのシェードなるものを設置して、

さてさて、どれくらい改善されるだろうか。

 

改善といえば、部屋のフローリング。

おそらく前の住人がかけたであろうワックスが落ちてきて、

汚れが目立つようになってきたので、一度ワックスを剥離し、

再度、ワックスかコーティングを施す予定。

 

改善するためには、お金もかかりますが。

その分、快適でストレスを軽減できるようになればこそ。

 

在宅勤務が中心の仕事環境で、3年が過ぎようとしているが、

やはり継続とか持続のためには、環境の整備が必要。

物理的にも、心理的にも、経済的にも。

 

というわけで、改悪とはならないよう気を付けつつ、

我々の日々を過ごしていきたいと思う、熱帯夜の日記でした。

 

 

 

 

 

俺はこの4年間、何をしてきたのか。

ただ、怠惰に時を過ごしてきただけなのか。

そう思うと泣けてきた。

 

そんな夢を見て目が覚めた。

 

夢の中での問いかけは、時として現実の生活に

深く突き刺さるものである。

 

とある教室で、私は社長にこう言われた。

「正捕手をとるために、本気で練習をしているのか」

何もしていない私は、正直にしていないと答えた。

「本気でやらない奴は、野球をやめてしまえ、退部させる」

強い口調で言われた。

 

周りの友人を見ると、心理学に長けているやつ、

栄養学に長けているやつ、彼らとの会話の中で、

3年前はみんな同列でスタートして、やりたいことを見つけ、

地道に努力してきた結果の「差」なのだと気づいたとき

涙が出てきた。

 

半年は、ただ、環境になじむために費やす、

そこから1年かけて自分独自の練習法を確立する、

そこからは我武者羅にその練習を反復する。

そう過ごす予定だったのに。。。

 

夢から目が覚めて、私はすぐに気が付いた。

今の私は本気だろうか。

「やらなければならない」ではなく、

「やりたい」で満たされているのか。

 

すると、日々やることはおのずと見えてきた気がする。

さぁ、やろう。そう思えた朝の目覚め。

もう悲しい思いをしたくない。

今年も、残すところあとわずかとなりました。

2022年も公私ともに色々ありました。

皆様のお陰様で、年を越せそうな気がします。

 

さて、昨日出した年賀状ですが、インターネットや携帯電話の普及で、

すっかり影を潜めた感があります。

 

年に一度、近くの友人や遠くの親せきなど、はがきを通じて、

その人に思いを馳せる大事なひと時であると個人的には思ってます。

 

でも、SNSやラインなどのアプリで、誰とも連絡するチャンネルが

開かれている今日この頃、年に一度といわず、取ろうと思えば取れる

連絡なので、年賀状のありがたみも昔に比べて薄れてしまったかも

しれませんね。

 

文章や絵、写真や動画などで交流することは、日常茶飯事なっているけど、

人々の交流や連絡が、この後、どうなっていくのでしょうか。

 

メタバースといわれる仮想空間やアバターを通して、仮想社会でもリルタイム

で、会うことができるのでしょうか。

 

はたまた、その空間で、作り出したもう一人の自分と、作り出された友人らと

仮想空間のビーチに行って宴会するなんて日も来るのかもしれません。

 

よりリアルな仮想社会を目指して、VRの装置を身に着けることで、

視覚、聴覚などを通して行う交流は、より身近になるのかもしれません。

 

現実を超えたところで、現実感を味わうという行為自体が、

なんとも不思議な気がしますが、それが当たり前の社会が来たら、

不思議とも思わなくなるのでしょう。

 

物理的な移動は時間がかかるという常識も、

仮想的な空間を作り出すことによって、常識を覆すのでしょう。

 

どこでもドアではないけれど、それに近いドアが開こうとしている

そんな21世紀が来る(かもしれないなんて)こと、

子供のころは想像すらできなかったな。

 

他者との時間的空間的距離なんて、縮まることなんてないのにね。

 

それは、自他を隔てている絶対的な領域があるからなのではなくて、

仏教的な自他一如という考えからすれば、当然なのだけど。

 

とにかく、葉書や電話、メールやアバターなど、

コミュニケーションツールは形を変えて、

僕らの生活に必要不可欠を装って、入り込んでくるけど、

基本は同じ。

コミュニケーションをはかるのは、他者との繋がる目的であって、

他者から自らを隔絶するためにはかるのではない。

他者という存在を前提とするのであればね。

 

それでも、皆様に生かされている私を感じることは、

楽しくもあり、辛くもあるけど。

 

それでは、よいお年をお迎えください。

このタイトルから、どんなことを想像するでしょうか。

妻が、この映画を見たいと言ったとき、是非一緒に行こうと私は答えた。

タイトルからして、デートには向かないことは分かっていたが、一緒に見に行って、途中から寒気がした事に驚いた。

見終わった後の感想。
これは、ホラー映画だ。非現実的なホラーではなく、現実に起きている日本社会におけるホラー。

通常、ホラー映画は一時的に恐怖を楽しむ目的に作られるが、このホラー映画は娯楽ではない。

教科書検定を中心として、政治的な介入など現実の社会問題をこれでもかと観客にに提示する作品。

政治の表には出てこない、裏に潜んだ得たいの知れない存在や思惑によって翻弄される、日常。


戦争や軍国主義と行った、過去の過ちだったと思っていた事が、今身の回りで少しずつ息を吹き替えしている現実。


かなり深刻な事態に陥っているのに、何が出きるのか全くわからない無力感。


この日記をつけて、選挙に行く事が、どれだけ意味のあることか疑問に思ってしまうが、むしろその諦めや考えなくなることが、何この狙いであるとするなら、少しでも良い方向に修正するために抗い続けるしかないのか。

こういう映画を観て、議論するような機会が、巷に溢れれば、少しはましな社会になるのだろうか。

薄気味の悪いホラー映画ほ、スクリーンの中だけの出来事ではなく、日常のあちらこちらに埋め込まれている。そのことに気づいても、絶望に支配されることなく、少しでも「まとも」であるために何をしたら良いのか。本当に考えさせられました。

https://www.mbs.jp/kyoiku-aikoku/

今年もあと2日で終わり、また新しい年を迎える。令和も早いもので、4年目に突入。


今年一年を振り返ると、本当にあっという間に過ぎ去った感覚しか残っていない。


日々の暮らしに追われ、仕事と子育てと家事にてんてこ舞い、そんな中でも、妻と娘と無事年を越せそうなことに感謝している。


令和元年、我が家に娘を迎え、幕が開いた。舞台の主人公は娘であり、彼女の成長、彼女の言動に一喜一憂する両親は、既にこの舞台では、脇役なのだろう。


妻の復職や部署異動、来年には私が部署異動を希望しており、また生活習慣やリズムの見直しが迫られている。


在宅勤務と会社への出社、保育園の送り迎え、食事の準備や買い物などが、暮らしのメインテーマであり妻と二人三脚で何とか転びそうになりながらも、今年はゴールできた。


来年は、第三者にたより、食事の宅配やベビーシッターさんなどをお願いしようか、妻と戦略を練りつつも、疲弊しない生活を築き、皆が笑顔で過ごせる日を1日でも増やすためには、ボケーっしてはいられない。


主人公の娘がこの令和の舞台で輝きを放ち続けて行けるよう、持続可能な暮らしを守る事に全力を傾ける所存です。


まだまだ未熟な父親だけど、家族を支える事が出来るよう精進するからね。来年もよろしく。

たまに貴方を怒らせて、呆れられてしまう夫だけど、いつも側にいて、頼りになるよう成長したいと思う気持ちは本物なんだ。


令和3年の年の瀬に。

令和時代の幕開けに。


思いを綴ってみました。




オリンピックの開催に対する批判的な意見を様々なメディアで散見する。


兎に角、私も今回のオリンピックの開催は反対である。コロナへの対策すら、この1年以上、まともに出来ていないと思う日本政府や東京都の行政が、安全安心な開催など出来うる筈もないと思うから。


タイトルにある狂気とは、そんな内閣の支持率が回復していると言った記事を見たから。[狂気の沙汰]とは、現在の政権へのアンチテーゼだけでなく、それを支えてしまっている世論、つまりどこの誰かよくわからない多くの日本人達に対する、絶望や怒りや諦めや悲しみなどが入り交じった、心の叫びである。


私の友人らとは、政治の話を全くしたことがない。以前、参議院選挙でれいわ新撰組の山本太郎代表を評価したコメントを友人にしたことがある。とても親しい友人から、冗談混じりに信者扱いされた時の哀しさはなかった。正面切ってまともに政策の良し悪しを話すことが出来ないアラフォー世代は、私の周りだけでなく、広く一般的な事なんだろう。


明日は東京都の都議会議員選挙だが、こんな時でも低い投票率、自民党の当選者が盛り返す事を想像しただけで、反吐が出そう。


政治に無関心と言われる事や、何も期待しない人々でも、日々の生活には無関心でいられないはず。


例えばですよ。消費税10%の廃止を訴えている政党がいるのに、その中身も知ろうともせず、今まで公約なんか守った試しがない政治家なんか信用出来ない、政治への不信感から、無視を決め込む人々は、今のままの暮らしで良いと思ってるのだろうか。


政治に希望を持つことすら出来ない多くの日本人を生み出した原因はどこにあるのか。戦後の教育制度?高度経済成長でバブルに浮かれた団塊の世代?従うことに慣れ親しんだ江戸時代から連面と続く農民意識?


今何とかやってる自分が、将来も何とかやってる保証なんてどこにもない。あなたは、今の政治に任せていたら、悪くなる一方だと不安を感じませんか?


無気力で、考える事を諦め、行動することすらしない人々と、同じ釜の飯を食うことに、果たして耐えて行くことは出来るのだろうか。


とどのつまり、今の日本で働いて、生活していく事に、限りなく絶望にも近い感情を抱き始めた自分は、どういう行動を、すべきだろうか。


狂気の沙汰は、身の回りの至るところにあるのみならズ、知らず知らず自分をも蝕んでいっているようである。





今日はゴールデンウィーク最終日。予約したマッサージまでの待ち時間で、筆を取るならぬ、携帯を取り出す。ただ、最近感じている事を書き連ねてみる。

子育て
我が家の姫君は、スクスクと育って、もうすぐ喋り出す兆候がみてとれる。ここまで、大きな怪我や病気もなく、本当に感謝の念が絶えない。ただ、これからの長い人生で、様々なイベントやハプニングは付き物だろう。彼女の幸多き人生を切に願い、一生懸命サポートする所存。

コロナ
昨年から猛威を奮い、未だに先行きが不透明な生活を強いられている。とはいえ、在宅勤務や、家族と過ごす時間など、プラスの側面もないわけではない。メディアを通して伝わってくる事象と、日常の現実に少しズレを感じつつも、いざ我が事となる事への不安が、重くのし掛かる。

政治経済
様々なライフイベントにさしかかるたび、表面化する日本の政治や経済状況。身の回りの事の延長でしか、考えられない自分の稚拙な知識や経験に頭を悩ませつつ、それでも首をかしげたくなる政治家達の言動や、政治を健全化する術を持つはずの日本国民への絶望。内閣支持率が高いとか、男女の不平等とか、環境問題への対処の遅れとか。怒るエネルギーすら既に枯渇してしまった。オリンピックパラリンピックの開催は、誰が為なのだろうか。

仕事
遣り甲斐とか、夢の実現とか、仕事を通した自己実現なんて事は、道すがら、どこかに置いてきた。それでも、日々の生活の糧を獲るために働かなければ行かんので、自分で自分を騙し騙し、いなしている感覚。少しでも、前向きに熱意を持って働きたいとは思うけど、何かを変えるだけの気力や体力が追いついてこないと、自分に言い訳。

様々な要素が織りなって営まれる生活は、本当にかけ替えのないものと頭ではわかっているけど、心と体はただ流れる時間の清濁に押し流されて漂っている感覚。
それでも、何が大事で、何が不必要か判断しながら、繰り返しの毎日に抗いたいと思ってはいる。

令和3年、吉祥寺のドトールにて。

令和二年の始まりから、怪しかった雲行き。

そう、通称コロナというウィルスが猛威を振るっている。

思えば、昨年の今頃には想像だにしなかった現在。

 

国を挙げての緊急事態宣言も、どれだけの効果があったのか。

まさかのGotoキャンペーン実施で、どれだけの影響を与えてるのか。

 

まだまだ、渦中にあるこのwithコロナとの生活。

今後いつまで続くのか。

 

様々な所で見聞きする新しい生活様式という言葉。

外に出るときは、マスクをして、

外出先では、消毒をして、

できる限り外に出ないで家にいる

人と話すときは、密な環境を避け、

己が菌の保持者かもしれないという、

不確実性を受け入れながら、生活する。

 

こんなことを基礎としながら、新しい生活様式を作ろうとしている。

オンラインで済むのなら、

デリバリーで済むのなら、

行かずに済むなら、

会わずに済むなら、

触れずに済むなら、

話さずに済むなら、

 

コロナの蔓延は誰のせいでもない。

しかしね。

台湾の水際対策を知ると、明らかに政府の対策で違う結果だと分かる。

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/20145

 

新しい生活をするために、個人でできることをするつもりだ。

でも、新たな住居に移り、テレワークの環境を整える。

それくらいが限界かな。

 

新しい政府によるトップダウンでの政策がなければ、

個人でできる「新しい生活様式」なんて、限界がある。

 

東京都知事選で感じた絶望感。

選挙で期待しすぎると、結果に裏切られた時のダメージがでかい。

 

それでも、現状への不満の矛先は、政治であり、

選挙に行くことが、矛を振るうことになる。

ここでも感じる個人の限界。

 

新しい生活様式とは何なのか。

 

とどのつまり、絶望や諦めといったネガティブな気持ちを内包しながら

それでも続く日々の生活を維持するという。

そこをベースに作り上げる生活パターン。

 

昔の日本人が紡ぎだしてきた生活の延長なのか。

堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ。

 

明日は終戦記念日となるが。

新たな闘いは、始まったばかりなであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在、生活になくてはならない存在の携帯電話。

思えば、通話する事しかできなかった90年代。

メールやインターネットなど多機能になった00年代。

声での操作が可能になった10年代。

今後、どのような進化を遂げていくのだろうか。

 

まず、タッチ操作を可能にしていた強化ガラス部分。

これがプラスチックに代用される日もそう遠くはないだろう。

非接触型の充電機能も強化されるのではないだろうか。

音声操作による利便性がアップするだろう。

 

テクノロジーの進歩という点では、義足や義手が注目に値する。

現在、最先端の義手は脳から発する電気信号を読み取って、

指を動かすレベルにまで達している。

 

これはつまり、接触部分があれば、電気信号を読み取って

操作できる可能性を示唆している。

 

携帯電話も、脳からの信号をよみとり、繰り返しタップ操作をすることなしに、

指示するだけで操作できるようになるのではないか。

 

そして、その機能も、電話するメールする調べ物をするという機能だけでなく、

より物理的な操作も兼ね備えるものになるのではないか。

既に、ホームマネジメントなどで使われている、エアコンをオンにするとか、

電化製品の電源のオンオフをするという事を応用して何ができるか。

無人の自動宅配便の実用化も進んでいる。

携帯一つで好きな時に好きなところへ、好きなものを届けることができる。

そう遠くはない未来。

 

携帯にライターのように火をおこす機能は要らないだろうか。

壊れることなく、どこでもいつでも充電でき、どんな操作も可能になる携帯。

 

携帯はますます手放せない文明の利器としての存在であり続けるだろう。

 

ドラえもんの出す道具で、何が一番欲しいか?

どこでもドア?タケコプター?通り抜けフープ?

 

小学生の私がひねり出した答えは、4次元ポケット。

これさえあれば、何でもできると。

 

強いて言うならば、携帯が4次元ポケットのような存在に近づく。

そんな未来になるのかもしれない。ちょっとしたわくわく感。

 

そう思えば、今日の代わり映えのしない仕事も頑張れるかもしれない。