さて、長らくご無沙汰しました!


実は特養にいる父が高熱を出し、日に日に弱まり、天に旅立ちました。



思い返すと、、4年ほど前、認知症が激しくなったころ(おそらく幻覚など見えていたのか?)


その頃のショックと戸惑いがとても大きかったものです。その後、特養で暮らすようになり


以前の父の曖昧さを嫌う性格?も影をひそみ、呑気丸出しの表情になりつつも


昔話を懐かしみ、訪ねる私らを心から歓迎してくれる様になって現在まで来たのですが、



認知症発症をしてからつぶさに父の様子を感じ取っていましたので、


斎場に入り、父の祭壇を目の前にしたとき思ったことは


「お父さん、良かったね!」


でした。


父親が亡くなって「良かったね!」はないでしょう?と思われるかと思いますが、、


父は若いころ、キリストを信じる信仰を持ちました。


何歳ぐらいからか、教会に足を運ぶことも少なくなり、


子の私にも何かにつまづいたのだなと感じ取れました。



父はどちらかというと静かな性格ですが、とても感情が豊かであり、


穏やかな外見からもその心の激情が見え隠れしていました。



認知症を発症して、その後穏やな毎日を送るようになってからは


少し父の違う面も見られるようになり、感情豊かなのは変わりませんでしたが、


鋭さがなくなっていました。



あ、なんだか同じことを何度も書いていますね。。



私にとって、親の死は初めてのことであったのですが、初めて実感することの


多い事を知りました。



上に書いたように、認知症発症のころのショックがあまりに大きかった故、


激しい悲しさは無かったのですが、


愛する人がこの世の中に存在しなくなった喪失感や、すでに亡骸であるにも


かかわらず、その肉体を消滅することへの恐怖、せめてミイラにでもして


残せないか?と自分がそのように思うとは想像もしていませんでした。



ですが、これら諸々の思いは日々変化し、今は自然に受け止められている


と思います。



幼稚な句ではありますが、


「もう、幾日も持つまい。たぶん今日会ったのが最後だろう・・」と予感した先週の日、


実家の庭に、今まさに咲かん、としている桃や桜の花々を見て一句読んでみました。



桜芽吹く花 去りゆく父と 重なりぬ



父は聖書の言葉を喜びながら穏やかに最後を迎えました。


「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに


 言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えにいくのです。


 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしの


 もとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」


        (新約聖書ヨハネ福音書14章2節~)



誰でも肉体は限りがあり、死ぬでしょう。


ですが、第二の死と言われる、魂の死の問題は、イエス・キリストを信じる信仰、


我らが受けるべき神さまの怒りをイエス・キリストが受けてくださった事実を


信じる私らは魂の救いを受けています。


イエス・キリストが甦らせられたということは、死が滅ぼされたことと信じます。



そのことを思い、この地上の生涯は終えて、新たな神さまの備えに入る父を


思い、歌った句です。



だから、思ったのです。



お父さん、良かったね!


って。